瀬戸正夫インタビュー<ダイジェスト①〜⑤>

瀬戸正夫さんインタビュー①〜バンコク日本人学校の戦争」
朝日新聞バンコク支局でカメラマン、記者として活躍した瀬戸正夫さんは、軍属スパイだった父親とタイ女性との間に生まれた日泰混血児。終戦後、戦犯容疑者となった父親と離れ離れになり、出生時の手違いから日本国籍も認められず、無国籍者として数々の辛酸を舐めた。戦後しばらくしてからタイ国籍を得て、タイ人となった瀬戸さんだが、日本軍のタイ占領時には、バンコク日本人学校で、日本人の子弟として、苛烈な皇国教育、軍国主義教育を受けている。
このインタビューは、2021年11月20日、太平洋戦争勃発、日本軍のタイ進駐から80周年のメモリアルイヤーに行われ、瀬戸さんに「バンコクの少国民」としての貴重な体験を語ってもらった。
瀬戸正夫さんインタビュー②〜タイ平和進駐の真相
瀬戸正夫さんへのロングインタビューから抜粋、その②。今回は、通常「平和進駐」と呼ばれる日本軍のタイ国進駐について、その実態を語ってもらっている。
日本軍の軍属スパイだった瀬戸さんのお父さんは、マレー上陸作戦の起点だったタイ南部のソンクラーで医院を営みながら、密かに情報収集にあたっていたが、1941年12月8日、太平洋戦争が始まると、軍の諜報員として公然化、上陸した日本軍の支援に奔走する。瀬戸さんはバンコクで開戦の日を迎えたが、ソンクラーにいた義母から、その日の父親の様子を伝え聞いていた。
日本軍のタイ進駐では、南部のプラチュアップキリカンで大きな戦闘が起き、死傷者も多く出た。日泰間で合意がなされた後も、無線機の故障で、戦闘中止の命令がとどなかったことが、被害が拡大した理由のようである。
瀬戸さんのお父さんがいたソンクラーでも、上陸時に小規模の戦闘が起き、双方に死傷者が出ている。インタビューでは、戦闘の詳しい模様には触れていないが、銃撃戦による被害よりも、荒天の最中、夜中に上陸を強行したため、溺れて亡くなった日本兵が多かったという元兵士の証言もある。
NHKの報道によれば、タイへの「平和進駐」時に、日本兵250人、タイ側で150人ほどの死者が出ているというが、その中に、上のような溺死者の数が含まれるかどうかは定かではない。
以下、NHKが公開しているアーカイブから、当時のニュースフィルムと、プラチュアップキリカン上陸作戦に参加した日本兵の証言。後者では、徳島の第143歩兵連隊に所属した中国義さんという方が「一日半の戦闘で日本兵80人が戦死した」と語っている。
瀬戸正夫さんインタビュー③〜軍属スパイ瀬戸久雄
瀬戸正雄さんインタビューダイジェスト3回目。今回は、マレー侵攻の起点ソンクラーで、日本軍の諜報活動に中心的な役割を果たした、父、瀬戸久雄さんの思い出を語ってもらった。
久雄さんは、二十の頃大望を抱いてシンガポールに渡り、その後、英領マレーの農園を転々としながら、現地の言葉と医学知識を身につけた。そこに目をつけたのが、マレーへの侵攻を企図し始めた当時の軍部であったと思われる。ソンクラーの新領事館に赴任した勝野領事は、当時の日本大使から、先んじて現地に医院を開業していた久雄さんを紹瀬戸正夫さんインタビューのダイジェ介され、「この人に何でも相談してください」と言われたことを記憶している。
久雄さんは、瀬戸さんを可愛がり、沖合へよく釣りに連れ出したが、そこで、瀬戸さんは、父親の奇妙な「釣り」の光景を目撃する。その場所は、マレー侵攻作戦で日本軍がソンクラーに上陸した際、艦船を停泊させた地点と一致していた。「息子を偽装工作に使ったのか?」このことは、瀬戸さんの心に、今でもわだかまりとして残っている。愛憎、相半ばする少年時代の父との思い出である。
瀬戸正夫さんインタビュー④〜開戦の夜
瀬戸正夫さんインタビューダイジェストの4回目。太平洋戦争開戦前日の12月7日、バンコク日本人会は「映画の夕べ」を開催し、在留邦人に参加を呼びかけた。真珠湾への奇襲を目論む日本側が、情報を秘匿しながら邦人婦女子を一か所に集めて安全を確保するために考えた苦肉の策だった。当時10歳の瀬戸さんも、映画会で恋愛映画を鑑賞した後、現地商社が用意したトラックに乗せられ、三井ワーフに停泊中のガンジス丸に避難した。翌日、早起きした瀬戸さんは、ガンジス丸の船長の口から「大東亜戦争が始まった。日本は大変なことをしてしまった」という言葉を聞かされる・・・。
おそらく瀬戸さんは、この歴史的瞬間を体験し目撃した最後の日本人になると思う。瀬戸さんは何冊もの著書を物しているし、いくつものインタビューでこの体験を語ってはおられるだろう。しかし、生身の人間の中にある記憶としての歴史は、瀬戸さんと共にこの世界から消え去るのだ。まことに不謹慎ながら、そういうことを考えざるをえなかった。
瀬戸正夫さんインタビュー⑤〜父親との別れと邦人疎開計画
瀬戸正夫さんインタビューダイジェスト版の5回目。今回で一応、最終とする。このインタビューは、前のものから2年後の2023年7月16日に撮影された。瀬戸さんは92歳となっていた。
最終回は、慕っていた父親との予期せぬ別れ、戦後になってから決別に至った経緯と、敗戦の夏に進んでいたバンコク在留邦人のバッタンバン(現在のカンボジア西部)疎開計画について語ってくれている。既に、疎開宿舎の建設が始まり、荷物の送付も終わった後に、終戦の詔勅となった。外地タイでも、日本軍及び日本国臣民は徹底抗戦の構えであったことが窺われる。空襲による被害がまだ少なかった分だけ、外地日本人の戦意は高かったのではないか。
さすがの瀬戸さんも、全体で1時間ほどのインタビューの後半には、疲れのため言葉が出なくなり、質問と答えが噛み合わなくなっている。そのため、瀬戸さんご本人の直接体験としての終戦日、および敗戦を知っての感想が聞けなかつたのが残念である。
少し朦朧とされていて、その虚な感じに、瀬戸さんの中で失われていった記憶も既に多いのではないかと察せられ、衝撃を受けた。ある歴史の最後の証言者の言葉を、肉声として記録し残したいというのが、聞き手である宇崎真さんの意図だったが、それにギリギリ間に合ったと言えるのかどうか、少々心許ない。
そんな自分の懸念など笑い飛ばしてくれるほど、瀬戸さんが、今後も堅固でおられることを願っております。
<了>
以下、瀬戸正夫氏関連のビデオ投稿
瀬戸正夫インタビュー①
瀬戸正夫インタビュー②〜バンコク日本人学校の戦争(その一)
瀬戸正夫インタビュー②平和進駐の夜(その二)
瀬戸正夫インタビュー②少年兵瀬戸正夫(その三)
瀬戸正夫インタビュー②軍属諜報員瀬戸久雄(その四)
瀬戸正夫インタビュー③〜日本人でもタイ人でもない私(前編)
瀬戸正夫インタビュー③〜父親との決別 (後編)