アジア日誌「瀬戸正夫さんインタビュー〜タイ『平和進駐』の真相」
瀬戸正夫さんへのロングインタビューから抜粋、その②。今回は、通常「平和進駐」と呼ばれる日本軍のタイ国進駐について、その実態を語ってもらっている。
日本軍の軍属スパイだった瀬戸さんのお父さんは、マレー上陸作戦の起点だったタイ南部のソンクラーで医院を営みながら、密かに情報収集にあたっていたが、1941年12月8日、太平洋戦争が始まると、軍の諜報員として公然化、上陸した日本軍の支援に奔走する。瀬戸さんはバンコクで開戦の日を迎えたが、ソンクラーにいた義母から、その日の父親の様子を伝え聞いていた。
日本軍のタイ進駐では、南部のプラチュアップキリカンで大きな戦闘が起き、死傷者も多く出た。日泰間で合意がなされた後も、無線機の故障で、戦闘中止の命令がとどなかったことが、被害が拡大した理由のようである。
瀬戸さんのお父さんがいたソンクラーでも、上陸時に小規模の戦闘が起き、双方に死傷者が出ている。インタビューでは、戦闘の詳しい模様には触れていないが、銃撃戦による被害よりも、荒天の最中、夜中に上陸を強行したため、溺れて亡くなった日本兵が多かったという元兵士の証言もある。
NHKの報道によれば、タイへの「平和進駐」時に、日本兵250人、タイ側で150人ほどの死者が出ているというが、その中に、上のような溺死者の数が含まれるかどうかは定かではない。
以下、NHKが公開しているアーカイブから、当時のニュースフィルムと、プラチュアップキリカン上陸作戦に参加した日本兵の証言。後者では、徳島の第143歩兵連隊に所属した中国義さんという方が「一日半の戦闘で日本兵80人が戦死した」と語っている。
<了>
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※八原博通が見たピブン首相の「会心の笑み」(1)~「シラパワタナターム(芸術文化)誌」1986年7月号より
※当時のソンクラ領事館(当時シンゴラ)の活動と勝野領事への評価に関しては、下の論文に詳しく、関係者の証言に基づいてより客観的に記されている。
The Imperial Japanese Consulatein Songkhla, ThailandPrelude to the Invasion of 8 December 1941 William L. Swan
以下、瀬戸正夫氏関連のビデオ
瀬戸正夫インタビュー①
瀬戸正夫インタビュー②〜バンコク日本人学校の戦争(その一)
瀬戸正夫インタビュー②平和進駐の夜(その二)
瀬戸正夫インタビュー②少年兵瀬戸正夫(その三)
瀬戸正夫インタビュー②軍属諜報員瀬戸久雄(その四)
瀬戸正夫インタビュー③〜日本人でもタイ人でもない私(前編)
瀬戸正夫インタビュー③〜父親との決別 (後編)