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映画史的ゴシップへの誘い~高橋治「絢爛たる影絵 小津安二郎」より

akiyamabkk



・・・と、大げさに題したが、松竹の代表的映画監督である山田洋次が、実は、大監督小津安二郎の不興をかっていたのではないか、という「憶測」を書く。妄想に近い憶測なので転載を禁じます。


高橋治の評伝「絢爛たる影絵 小津安二郎」の中にこんな場面がある。松竹には他社と違い、監督を会社が一方的に解雇する場合、一年分の契約料に相当する違約金を払うという約束事があった。これは監督の権利保全のため小津が作ったシステムだったが、1960年代初頭、会社側の切り崩しに遭い、この松竹のよき伝統が壊れ始める。


著者の高橋治(松竹出身の映画監督であり、「東京物語」では小津の助監督についている)は、会社が提示した契約書に、この「違約金条項」が無いことを不審に思い、監督会で問題にする。以下、引用



私は入会が許された最初の監督会でこの件を議題にあげた。説明を終えると同時に小津が吐き出すような語調でいった。


「そんな馬鹿なことがあるか。蛮、君か?」

小津か井上に聞いた。

「いいえ、私は昔通りです」

「蛮の次は大島か。大島は違約金を払って辞めたじゃないか」

 ※違約金は相互的なもので監督側にも適用された


小津の目がすっと一方に流れた。

「君か?」

問いかけられた人物は身を固くしてうつむいていた。

「何故だ?」

「...五社の話し合いで、松竹だけが特権を認めているのは困ると言われたのだそうです」

「...君、松竹の監督契約がどうして他社と違っているかを知っているのか?」

「・・・はあ」

「知っててそんな契約書に判を押したのかい?」

「・・・・・」

「自分だけが監督になれれば、他の人のことはどうでも良いのかい?」

「在来の人のものは既得権として変えないそうです」

「俺なら自分より後の人のことを考えるがね」

「・・・・・」

「落ちたもんだな、松竹の監督も」



この後、小津の水際立った談判により、会社側は「紳士協定としての」違約金の継続を約束する。高橋は協定の文書化をなおも要求するが、小津の「俺が聞いているよ」の一言に鉾をおさめざるをえかった。高橋の危惧は的中し、小津の死後、この時の約束は会社側によって反故にされていく。


小津の言葉に出てくる「大島の退社」が1961年、他の記述を見ても、おそらくこの監督会が開かれたのは、この年と推察される。山田洋次が「二階の他人」で監督デビューするのも1961年だから、新人監督として、山田がこの監督会に出席していた可能性は高い。そして、大島渚、篠田正治、吉田喜重ら「松竹ヌーベルバーグ」の同期、同世代に先を越され、監督デビューを焦った山田洋次が、会社側の甘言に惑わされ、契約書にサインしたとしても無理はない気がするのである。


また、この高橋治の評伝に、大島、篠田、吉田の名は頻繁に登場するのに、ほぼ同期の山田洋次の名前が一切出てこないのにも不自然さを感じる。山田洋次の側も、「東京家族」という「東京物語」のオマージュ作品まで作っているにも関わらず、山田が小津との個人的な思い出を語っているのを、聞いたことも、読んだこともない。映画の宣伝の過程で、それほどの付き合いはなくても、何がしら思い出を話すのが普通ではないか。


若手監督時代に、日本を代表する映画監督に「落ちたもんだな、松竹の監督も」とまで言われたら、相当な精神的トラウマとなるはずで、この人物が山田洋次だとしたら、小津との個人的な交流、印象を語りたがらないのも、理解できるのである。インタビューなどで目にした時に感じる山田監督の屈折、「瘴気を発している」とまで言えそうな暗さの原点が、この辺りにあるような気がしてならない。将来、山田洋次の評伝を書く人がいたら、ぜひこの点を検証してみて欲しい。


<了>

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