◇小説「火垂るの墓」橋爪功の名朗読
Netflix でアニメ「火垂るの墓」が世界配信され、少し話題になっているようだ。自分も久しぶりにこの戦争映画の傑作を見返して感動したが、疑問に思うこともあって原作を読み返してみようと思い立った。が、あると思っていた文庫本が見当たらない。
そこで、ネットを検索中に見つけたのがこれ。
橋爪功の名朗読。何十年ぶりかでこの小説を読み直した、というか聞き直した。一昨日、Netflix でアニメも見たが、やはり、大人が感極まるのはこちらでしょう。聞いていて胸が締め付けられるような、異様な気分になった。朗読の力もあるが、まずは小説の凄さだと思う。
清太が預金を下ろさなかったことが議論になっているようだが、小説を読むと(聞くと)スッと腑に落ちる。親戚の家を二人で出てしまったから配給には加われない。闇では特別なコネがないと買えないし、値段も高騰している。加えて、農家は小狡くて、戦争末期、金で米は売らなくなっているのである。だから、清太は、盗みをして物々交換で食べ物を得るしかなかったのだ。
金で食べ物が買えたなら、当然、預金をおろして、妹に与えたはずで、この兄が金を惜しんで妹を飢えさせるはずがないではないか。
アニメーションでは、預金を下ろすときに終戦を知るので、時間が前後して、誤解をまねく形になっているが、小説では、終戦を知って預金をおろし、統制が緩んだ闇市で「滋養のあるもの」を買った、という流れになっている。(何度も空襲に晒されて、銀行が営業していたのか、という疑問もある。終戦になってから銀行が開いた、ということかもしれない。)
高畑勲ほどの人が、どうしてこういうミスをしたのか分からないが、おそらく、当時の観客には「これで分かる」と思ったのではないか?しかし、公開当時に見た自分も、この点は腑に落ちなかったし、時間が経つにつれ、ますます、若い世代には、分からなくなっていると思う。彼らは、生まれた時から、コンビニで24時間ものが買えたのだ。まあ、自分も似たようなもんだが。
もう一つ、小説では、清太も一緒に飢えていく描写が時おり挟まれるのだが、アニメでは節子だけが飢えていくように目えるのが、不自然な感じがした。これも、若い観客に、清太に対する違和感を感じさせる原因となっているのではないか?
今回、ネトフリで全世界で配信されて、同じような議論がまた蒸し返されているようだが、日本の若い観客には、トンデモ説を信じる前に、原作を読んでほしいと思った。
※この朗読投稿は著作権的に微妙なので、ストリーミング再生はせずにアドレスを載せるに留めた。著作権者のこの種のYouTube投稿への対応パターンは何通りかあり、条件付きで許容される場合もあるのである。その辺りは、外部からは窺い知れなことなので、YouTubeが掲載を認めている以上、著作権的に何らかの折り合いがついているものとみなして、こういう対応をとった。
<了>