八原博通は、旧制中学から陸軍士官学校入りした秀才で(幼年学校出身ではない)、陸軍大学校を優秀な成績で卒業し、「恩賜の軍刀」を拝領した卒業生の特権でアメリカ留学を3年間許された。沖縄決戦では高級参謀として、玉砕戦法を主張する軍主流に抗して、持久作戦を立案し米軍を迎え撃った知米派の合理主義者だった。
その八原だけあって、太平洋戦争開戦当時のタイの国民感情を冷静に分析して、こう書いてある。
「そのころ、タイとフランスとは領土紛争を抱えており、日本が仲介にはいって話をつけた。このおかげて、長年の日本とタイの友好関係はさらに深まっていた。またタイの空軍は、西洋諸国の戦闘機の代わりに日本の戦闘機を概ね採用していた。教官となった日本の空軍士官とタイの空軍将校との関係も緊密だった」
「インドシナで日本とフランスの紛争が起こった時、タイ政府は捕虜となった若いフランス兵を檻にいれて連れていき、タイ人向けの見世物にした。タイ人の持つ西洋人コンプレックスを除く目的だったようだが、婦女子を喜ばせるにすぎない結果となった」
「日露戦争の時も、タイは同じようなことをした。我々日本人はタイ人のそのような行為を一概に軽蔑すべきではないだろう。なぜならそれは、我々アジア人の白色人種に対する憤懣を代表しているように思えるからだ。彼らの、アジア人に対する横暴な態度、常に我々より進んでいて賢いと言わんばかりの傲慢さに対する復讐的な心情である。」
「しかし、我々がそのような心情をタイ人と共有し、タイ人が我々に友好的な態度を示すとしても、それをもってタイ人が『我々と同じである』とか『うまくやっていける』と考えるのは間違いである。タイ人が西洋人に対する憎しみを我々と共有していることは、日本軍がタイに足を踏み入れた時、彼らが友好的であり続ける保証にはならないのである」
事態を楽観していなかった八原は、日本軍上陸時、タイ側との交渉を担当した日本大使館の立場をこう説明している。
「1941年12月8日 近衛師団指揮下の吉田大隊は、バンコク近郊のバンプーに上陸し、アランヤプラテートから進軍する第15軍と連携してバンコクに入る計画だった。バンプーはバンコクから10キロ少し離れた海岸の避暑地で、バンコクとはコンクリート舗装された道でつながっていた。第44師団傘下の第一歩兵大隊は、タイ南部の海岸に上陸し、ソンクラに世上陸する第25軍を援護する役割だった。」
「この計画を実行するため、日本大使館では、首相以下閣僚に招待状を出し、1941年12月7日、大使館での晩餐会に招くことにした。日本軍が上陸したとき、タイ政府の命令、行動を掣肘するのが目的だった。日本軍にとって最善なのは、相手国の同意を得て、作戦を実行することだったが、事前に計画をタイ側に知らせることはできなかった。情報が漏洩されて、政治的な問題を引き起こしたり、軍事作戦に影響を与えることを恐れたからである。」「(事前に交渉して計画が漏洩することは望まなかったが)、一方でタイ側と戦うことも望んでいなかった。上記の制約と必要を勘案した結果、我々は首相以下閣僚を晩餐会に招待する策をとったのである。このようなやり方にリスクがあり、また礼儀にかけるとしても、我々は、これが難関を突破する最上の策だと信じていた」
しかし、大使館側の思惑ははずれ、開戦前日、タイ首相は雲隠れして連絡がとれななくなる。以下、八原中佐(当時)の手記より、
◇ピブン・ソンクラーム首相、消息を絶つ。
「夕方になり、計画通り、日本人を一カ所に集めるための映画界が催され、屈強の男たちがバンプ―での任務に派遣された。(※開戦前夜、安全確保のため在留邦人はタイ湾に停泊する船に隔離された。日本人を集めるための口実に映画会が使われたのである。また、タイ郊外のバンプーには、壮年男性からなる一団が、吉田隊の上陸支援と電話線の切断の任務を帯びて派遣された)大使館では、晩餐会が始まり、何人かの閣僚が出席し、坪上大使や海軍武官も顔をそろえていた。しかし、計画は失敗に終わりそうだった。首相であるピブン・ソンクラーム元帥が、出欠の返事をよこさず、まだ晩餐会に顔を出していなかったのである。」
「タイ側からの出席者はそれほど重要でない閣僚ばかりだった。このざまでは晩餐会の計画は最初から失敗だった。」「宴席の雰囲気も活気がなく、主催者の日本側は、不安のあまり何度も時計を見ているありさまだった。参加している閣僚に、首相が来れない理由や現在の居場所を尋ねても、『首相はこの2,3日不在で、どこにいるのか分からないない。地方に視察に出かけているようだ』という答えが返ってくるだけだった。」
「夜は更けていき、大使館側が第15軍に交渉の結果を知らせる時間が近づいてきた。やもなく、ある大臣に、日本に宣戦布告の意思があることを通告した。長身、色白のその大臣は、それを聞いて大変驚いた様子で、ひどく苦しい立場に立たされたようだった。私は、彼のその時の表情を今でも鮮明に覚えている」
「タイ側に告知すると、宴会は自然とお開きになった。日本側は別室で協議を始め、タイ側は緊急閣僚会議を開くために、他の大臣に連絡を取り始めた。閣僚の何人かは家で家族と食事中だったが、レストランで外食中だったり、観劇中だったりするものもいて、大半は家を空けていた」
「第15軍の司令部からはタイ側の協力が得られたかどうか電報で訪ねてきた。タイと戦争になるのか、通行を許可するのかということである。しかし、大使館側としては返事のしようがない。結局、近衛師団はアランヤプラテートからタイ側に越境、進軍した」
「大使館では、幹部たちはスコッチウィスキーで緊張をほぐしていたが、不安感から酒がどんどん進んだ。彼らにもやれることは殆どなかったからである。」
「12月8日の明け方になっても、タイ側から協力を取り付けることはできていなかった。近衛師団はすでに国境を越えてタイ側に入り、大部隊が侵攻しているはずだった。44師団と第25軍は南タイに上陸していると思われ、タイ側との戦闘が始まっているかもしれなかった」
「吉田歩兵大隊もバンプーに上陸しているはずで、この部隊がバンコクに侵攻してくれば戦闘は避けられない。もしこれを放置すれば、状況はさらに悪化し、取返しがつかない事態になるだろう。首相の帰還を首を長くして待っているタイ側と日本側は、これ以上交渉の雰囲気を悪くさせないよう、状況の悪化を阻止する措置をとることで合意したのである」
両国は当面の戦闘停止で合意し、八原中佐はタイ側の将軍二人と共に、バンコク近郊のバンプーへ急行する。タイ側の一人は陸軍参謀部付き、もう一人は海軍参謀部の将官で、二人とも情報部門を任務としていた。
<参考>