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メーナーク~タイで一番有名な幽霊の話

akiyamabkk

By Hideki AKIYAMA




メーナーク、タイで一番有名な幽霊である。これまで何度となくドラマ化、映画化されてきた女のお化けだ。私の住んでいるプラカノン地区の運河沿いにマハーブット寺という有名なお寺があるが、その境内にこの幽霊が祀られている。 メーとはタイ語で母親のこと。ナークが名前である。お化けなのに、一種の信仰の対象として敬意を込めて呼ばれている。若い人は「ヤーナーク」、「ナークお婆さん」とも呼ぶそうだ。恋愛成就の霊力を持つピー(タイ語でオバケのこと)、あるいは宝くじの番号をあてる怨霊として若い人にも人気がある。

メーナークの怪談話は雨月物語の「浅茅が宿」(溝口健司の「雨月物語」のもとになった)と似ている。夫が王宮の警護に行っている間に難産の末死んだ妻が、この世に未練を残して夫にまとわりつぐが、偉いお坊さんに説得されて往生する・・というストーリーである。「雨月物語」の幽霊のような良妻賢母型ではなく、夫が恋しくて往生できない、駄々っ子のようなお化けである。


「メーナーク伝説を紐解く」

この幽霊は実在したらしい・・・というと妙な言い方になるが、怪談の種になるようなゴシップがあったらしい。アネーク・ナーウィックムーン氏の名著「メーナーク伝説を紐解く」によれば、ラマ3世から5世の治世を生きた古老が「サイヤムプラぺート」いう雑誌で読者の質問に答え、以下のように述べている。 「ラマ3世王の統治の頃、パカノン運河に女性の幽霊が出るという噂があった。女は土地の分限者の妻、アムデンのナークで、難産のためお腹の子供とともに死んだのだ。ところが、夫のチュムがマハーブッド寺へ遺体を運ぼうとすると、船をゆすって邪魔をする女の幽霊が現われた」

「その後も、幽霊がしばしば現われて村人を恐懼させたが、その顛末は、父親が再婚して財産の分け前が少なくなることを恐れた息子が、幽霊に扮して父親の再婚を邪魔していたのだった。悪事を告白した後、息子はポー寺で首を括って死んだ」 上のような話を、その古老が、マハーブット寺の住職から当時聞いたというのである。事件があったのはラマ3世の治世だから19世紀の中頃、上の雑誌が発行されたのは、それから半世紀ほどたった1899年である。 そのころ既に、メーナークは有名な幽霊であったらしく、王宮の門に通る人に、4つの名前をあげて知っているかどうか尋ねる調査をしたところ、メーナークを知っている人が一番多かったというエピソードが紹介されていた。

しばらくして、その頃英国に滞在していたラマ6世王(同時は皇太子)が、「第二のパカノンのメーナーク」と題した小文を英語とタイ語で記している。サイヤムプラぺートの記事から6年後の1905年のことである。 「メーナーク伝説を紐解く」の筆者は、ラマ6世王が「サイアムプラぺート誌」の記事を読んでいたと想像している。「第二のパカノンのメーナーク」では、タイ国で警察顧問を長年務めていた英国人が、殿下(当時)と会食のおりに話した四方山話のひとつ・・・という設定で、だいたい前記と同じ内容のストーリーが語られているからである。 夫の名前がパンチョートと変わり、警察が捜査に入り幽霊の正体を暴く体裁になってはいるが、「息子が父親の再婚を邪魔するために母親の幽霊に化けた」という話の骨格は変わらない。当時からする「現代に蘇ったメーナーク」という趣向だが、陛下がこれを実話として書かれたのか、小説としてものされたのか、同書の記述からははっきりしない。

そして「決定版」がその7年後に登場する。ラマ4世王の御子息の一人で「千夜一夜物語」の翻訳でも有名なワラワナーコーン親王が、マークパヤーの変名で、メーナークのゴシップ話を歌劇に仕立てて発表するのである。 歌劇では、夫の名はマーク(35歳)となっている。マークが宮廷警備の任務中に、妻ナーク(32歳)は難産の末、子供とともに亡くなる。幽霊になった妻は、任務中の夫を尋ね一夜をともにし翌朝にはどこかに消えてしまう。村に戻った夫は、両親にナークが死んだと知らされるが信じようとしない。 家に戻ったマークは、ナークにやさしく迎えられ、新しく生まれた男の子と一緒に暮らし始める。心配した親友のトイや、霊媒師クルアテが尋ね来ても、ナークは首を絞めたり、手で叩いたりして、追い払ってしまう。


しかし、ライムの汁を絞るとナークの手の骨が透けて見えたり、手がにゅっと伸びて香菜を摘んだり(これはタイのオバケ話では「ろくろ首の首が伸びる」のと同じくらい有名なシーンである)、生まれたばかりの男の子が犬の子をむしゃむしゃ食べたり、いろいろおかしな事が起こるので、マークも妻が幽霊であることに気付く。 マークは意を決して、霊媒師クルアテに仲介を頼み、後に高僧となる青年僧プアックに嘆願する。プアック師は念仏の力でナークをツボの中に閉じ込めるのである。 歌劇は王宮内の劇場で実際に上演され、メーナークと青年僧プアックの対決シーンでは、ツボに閉じ込められたはずのナークが、舞台上部の看板の脇から現われ、観客が歓声が上げる・・・といった仕掛けがあった。ツボの下に穴があいていてナークを演じる役者は密かに穴から抜け出して、舞台上部への階段を上るのである。 「メーナーク伝説を紐解く」の著者は、この後も、フィクションとしてのメーナークの足跡を丹念に辿り続けるが、以降出てくる小説、舞台劇、テレビドラマ、映画は、基本的にこの歌劇で確立された内容をもとにしているようだ。以降は、メーナークが恋い慕う夫の名も一貫して「マーク」である。 余談になるが、この歌劇の中で、死体処理人が「宝くじを当てるために」ナークの額から骨をくりぬいてお守りにしようとし、ナークに首を絞めらる・・・というシーンがある。メーナークがなぜ宝くじの神様なのか、これを読んで長年の疑問が氷解したのだが、歌劇が書かれたのは、今から、100年ほどまえのことである。そんなに昔から宝くじがタイにあったのだろうか?と疑問に思い調べてみると、これがあったのだ。 タイ語の宝くじ「フゥアイ」は、中国語のフゥアイフアイ(花会)を語源にしている。フゥアイフアイは、34種類の絵札のうち一枚を当てるゲームで、当たれば親から30倍の配当が得られる。本家の中国式では、著名な歴史上の人物の肖像が札に描かれたが、タイで普及するにあたって、タイ式アルファベット(36字)が描かれるようになった。 フゥアイは財政再建のために、ラマ3世の時代(19世紀前半)、公認の賭博となり、賭場の管理者には中国系が選ばれ、クンバーンという官位も与えられた。人気が過熱しすぎためラマ5世の時代に禁止されたが、「まず盆ござ形式を廃止し、次にフゥアイ形式のものを禁止した」とWikiにあるから、賭場を開いてやるものと、宝くじ式に不特定多数に札を当てさせる形式と2つあったものと思われる。


https://th.wikipedia.org/wiki/หวยในประเทศไทย ちなみに、現在のように宝くじが政府系の公社によって法律に則って運営され始めたのは、今から85年前の1939年であるが、同時もまだ、表記には数字ではなくタイ語のアルファベットが使われていたそうだ。 話が相当脱線した。メーナークの逸話は日本のお岩さんを連想させる。噂話、ゴシップが歌舞伎や落語の演目になって人気を博し、フィクションなのに祟りを恐れた人たちが、ゆかりの地にお岩稲荷までたててしまう。タイでもほぼ同じことが起こったわけだが、日本での鶴屋南北や三遊亭円朝の役割を、タイでは当時の知識階級の先端的存在であった王室の方々が果たしたということだろう。あるいはそこには、迷信的土着宗教から仏教の教えに誘う教導的な意図もあったかもしれない。 東海道四谷怪談を上演する日本の演劇人が四谷のお岩稲荷を訪れるように、メーナークをドラマや映画にするとき、タイのスタッフ・俳優陣はパカノンのメーナーク廟を訪れ、上演の許しを請い、成功を祈願する。違っているのは、彼らの多くが、宝くじの当たり番号も、ついでメーナークに聞いていくことだろう。


<了>


参考 メーナーク伝説が再びテレビドラマ化。



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