ハノイ・ジェーンとジョン・バエズ、プロパガンダと反戦、そして「あの」歴史的映像について。
写真は、ワシントンポスト記事より
How Jane Fonda's 1972 trip to North Vietnam earned her the nickname, "Hanoi Jane"
以下、「インドチャイナ~橋田信介、ジョン・バエズ、トンニャットホテル(二)ジョン・バエズ」を再掲する。
…..ジョン・バエズはハノイから帰国して一月もたたないうちに、雑誌ローリングストーンのインタビューに答えている。その内容を少し紹介したい。
ハノイ側が用意した「適応期間」の数日が過ぎ、バエズたちは衝撃的な情景に出会うことになった。
「朝食を食べていた時です。急に彼らがやってきて、これから爆撃現場を見に行くというのです。そこで報道陣と一緒に、カムティアム通りに行った。ベトナムの戦争犯罪コミッショナーがつきっきりで、爆撃の回数、負傷者、死者を教えてくれる」
「瓦礫の上を自転車で行けないので、みんな自転車を担いで渡っていた。一人の老人がいて、瓦礫の中で難儀しているようでした。私は、近づいて手を貸してあげた。老人は私を見ました。顎に白いひげが少し生えた、小さな顔でした。彼が震えているのがわかった。しばらく私も彼も泣いていた。そして、彼は、私のわからない言葉で何かつぶやくと、目を上げて私を見て、ダンケシェン、といいました」
ジョン・バエズは、帰国後、 Where are You Now, my Son? というアルバムを出している。そのアルバムは、レコードの片面21分間のほぼすべてが、ハノイでの録音と、空爆体験の朗読に費やされているのだが、この老人の話は、ほぼインタビューで語られたとおりの形で、バエズ自身の肉声で語られている。微妙に違うのは、「目を上げて私を見た」ではなく「目を伏せたまま、こちらを見ずに少し微笑んで、ダンケシェンと言った」となっているところだ。ハノイの戦争被害者とのファーストコンタクトが、記憶の中で何度も反芻されることによって、詩的経験として昇華されていることが伺える。録音は下の YouTube サイトで聞くことができる。
※Where are you now, my son?
アルバムは、ハノイで実際に録音された空襲警報から始まる。走っていく人々の足音が重なり、何かをしゃべる声。遠くで響く爆音。「この数日、爆撃が殊の外激しい」という男の現場での説明があり、瓦礫を掘り返す音。そして、ベトナム語で泣き叫ぶ女性の声。男の声で「何かを叫んでいます、私の息子はどこ?と叫んでいるそうです」しばらく、空爆の現場で録音した、女性の泣き叫ぶ声が続く。音楽が重なり、バエズの朗読の声、「戦場を歩くとき、私はいつも泣いています。私はこれまで生きてきて、死を恐れない人にほとんど会ったことがない」と始まり、自転車に乗って死者に花束をささげに来た少女の逸話に続く。そして、アルバムの題名になった女性の話。
以下原文を引くと、
ある年老いた女性が、
爆撃でできた穴の中を突きまわしている
服の切れ端や、靴らしきものの破片、
一生のすべての厄介ごとの名残を
彼女の喉から出てくる呪文のような泣き声が、
朝の空気を切り裂いている
彼女の一人息子が昨夜、
彼女の足の下に埋められたのだ
誰かが言う 戦争は終わった!
ああ息子よ、今お前はどこにいるの?
この最後のフレーズがアルバムの題名になった。冒頭に出てくるベトナム人女性の声が何を言っているのか我々にはわからないが、半世紀近くたって YouTube にアップされたこの録音を聞いて、リスナーのあるアメリカ人がこうコメントしていた。「なんてこと!?私はベトナム系だから彼女が何を言っているかわかる、彼女は亡くなった肉親の事を叫んでるの!」アメリカに渡ったベトナム系移民の子孫が、父祖の過酷だった歴史に改めて思いを致した瞬間だろう。我々が映像や音声を記録することに何かの意味があるとしたら、こういう瞬間のためにあるのではないか。
空爆が一時的に停止し、バエズたちがハノイを去る日、AP通信が行ったインタビューが残っている。APがシェアするのを許可しているアーカイヴ素材なので、ここにリンクしてみる。
主に答えているトレンチコートの男性は、ナチスの犯罪を裁いたニュールンベルグ裁判の検察官だった弁護士テルフォード・テイラーだろう。病院への爆撃に関して矛盾した情報があるが?と質問する記者に対し、「バクマイ病院は完全に破壊されている」ときっぱりと答えている。横から「爆撃は一回ではなく、複数回行われた」と口をはさんでいるのが、ベトナム帰りの元兵士で反戦活動家のバリー・ロモだと思われる。病院等民間施設への攻撃を否定していた米政府は、彼らの証言によって事実を認めざるを得なかった。
バエズは、ハノイ訪問の感想を聞く記者に対して、率直にこう答えている。
「他の人と同じことですが、ここで行われている恐るべきことを、理解するのに少し時間がかかりました。ここから去ることができるという安堵の気持ちと、こういう行為に国民の一人として加担しているという罪の意識と、二つが入り混じった気持ちですね。」
そして、Hideousness(恐ろしいこと、醜いこと)とは、どういう意味かと問う記者に、苦笑いして、おずおずと、口ごもりながら、
「殺人、虐殺、流血、そういうことですね」
と、答えている。そこに「自分は正義の側にある」という高揚感はなく、ただただ、自分が見てしまった現実に打ちのめされているという印象である。
ベトナム戦争に従軍し、後に軍縮問題の権威となったドン・ケイトという人が、バエズのこのような態度と、数か月前にハノイを訪問したジェーン・フォンダとを比較している。こちらもAP通信がアーカイブで公開しているので引用しておこう。フォンダが「ハノイ・ジェーン」と言われるようになった所以の映像である。
北ベトナム軍の高射砲に座って、米軍の爆撃機を打ち落とそうとしていると誤解されかねない映像だ。フォンダはこの映像について何度も公式に謝罪していてる。(すぐ事の重大性に気付いてカメラマンに写真を公にしないように頼んだとも述べている)ベトナム側に仕組まれて知らない間に座らされた、というのである。映像での彼女の舞い上がりぶりを見ると、本当にそうだったろうな、と思わせられる。ベトナム側はもちろん意識的にこの映像を演出しただろう。今の考えならば、そういう事をすると、フォンダのアメリカでの評判を落とし、ベトナム側の政治宣伝にはマイナスではないかと思うのだが、当時の共産主義陣営の政治プロパガンダとはそういうものだったのだと思う。
北爆にも兵士として参加した前出のドン・ケイトはこう書いている。
ジョン・バエズは彼女の平和主義の信条や戦争への嫌悪に関しては歯に衣着せなかった。だが、ベトナム戦争中もっとも激しい爆撃を体験した後でさえ、反米的コメントに誘導しようとする番組の司会者に対して、彼女の信念が揺らぐことはなかった。彼女は、「全ての側の戦争を嫌悪する、その戦争が誰のものであろうと」と言い続けたのである。ベトナムで戦っていた我々は、彼女の発言がなされた直後にそれを聞いた。我々は粗野な兵士にすぎなかったかもしれないが、バエズの戦争反対の主張と、フォンダの大っぴらな北ベトナム支持のプロパガンダとの微妙な違いを理解することができる程度には知的だったのである。当時も今も、その微妙な違いを、プレスは見逃しているが・・・。
ケイトは、当時戦場で戦っていた自分たち兵士にも、バエズの言葉や態度には、「彼女の意見には同意しないにしても、ひとりのアメリカ国民としてそう主張する権利があると思わせるものがあった」とも述べている。
バエズは「ローリングストーン」のインタビューでも以下のような話をしている。
「あるベトナム人が私に聞きました、あの米軍の爆撃機を打ち落としてやれれば、どんなに気持ちいいか、そう思わないかい?と。私は、そうね、もしパイロットがその前に脱出できるなら、気持ちいいでしょうね、と答えました」
帰国後激しい批判にさらされたジェーン・フォンダから処世上の教訓を学んだのさ、という皮肉な見方もあるだろが、これは自国の戦争に直面した絶対平和主義者が必ず直面する矛盾だと思う。少なくともバエズには「あなたの同国人を殺したら気持ちいいだろうね」と問われて、「そうね」と調子を合わす軽薄さはなかったのである。
ジョン・バエズはクェーカー教徒である。ニクソンもクェーカー教徒に生まれたのは歴史の皮肉だが、バエズの平和主義には付け焼刃ではない、時代の潮流とはまた少し違った、一貫したものを感じる。このインタビューでも、他の男性二人には「正しいことをしている」という気負いや熱が感じられるが(それは当然そういうものだろうが)、バエズは「困ったなあ」という顔しかしていない。そこがこの人らしいとろこでは、と思うのである。
バエズたちのハノイ訪問のいわばクライマックスは、クリスマスイブの晩にベトナム国際連帯が主催したミサだった。実は私は、アメリカの猛爆撃のもとで行われたこのミサの様子をある日本人から聞いている。今はもう憶えている人も少ないだろうが、イラクで亡くなったジャーナリスト、橋田信介氏である。・・・
追記
お分かりだろうか?冒頭のフォンダの写真、向かって左側に写っている人物こそ、当時の日本電波ニュース社ハノイ支局員だった宇崎真さんである。喜寿を超えてなお現役バリバリ、日本電波ニュースの現バンコク支局長を務める宇崎さんは、橋田さんとは同世代であり、ベトナム戦争取材で凌ぎを削った仲だった。
北爆下での貴重な取材体験を、私は宇崎さんから直接お聞きしているし、フォンダの映像が明るみに出た経緯についても話をお聞きした。しかし、それは宇崎さんご自身が、お書きになったものをお読み頂くべきだろうと思うので、ここでは触れないことにする。
宇崎さんは、ハノイ駐在員として、ジェーン・フォンダに「ハノイ・ジェーン」の異名を進呈する歴史的スクープを撮った。そして宇崎さんから少し遅れて、ハノイ駐在を始めた橋田さんにも、因縁浅からぬアメリカ人女性がいたわけだ。それが、フォンダから数ヶ月遅れてハノイを訪れたジョン・バエズだったのである。
参考
※このAPの Youtubeサイトはシェアーしても、埋め込みしてもOKです。概要欄に以下のように但し書きがあります。
Welcome to the AP Archive YouTube Channel.
AP Archive is the film and video archive of The Associated Press -- the world's largest and oldest news agency. Our cameramen have been capturing the iconic moments that have shaped the world in which we live and we have over 1.7 million news, sports, entertainment and fashion stories dating back to 1895 to share with you, here and on our British Movietone channel - https://www.youtube.com/c/BritishMovietone With new footage added daily from our global news network, we hope you will enjoy exploring and sharing our content. Please feel free to share our content with friends and embed onto your own websites and social media forums using the YouTube share and embed icons found underneath each video. Downloading videos to your own PC is an infringement of YouTube’s terms and conditions. Learn more at http://www.aparchive.com/HowWeWork
※ドン・ケイトの文章の原文は以下
Ms Baez made no bones about her pacifist beliefs and her hatred of wars. Yet, even after suffering through some of the most intense bombing raids of the entire Vietnam War, when asked by her hosts/watchers to make anti-US statements, she stuck to her beliefs, saying she hated all war by all sides, no matter what. We fighting men heard Baez's statements as soon as they were made. Somehow, we ignorant warriors were sophisticated enough to recognize the difference between Baez's anti-war statements and Fonda's open promotion of North Vietnamese victory--an apparently too-subtle distinction that has escaped the press even today.
※ジェーン・フォンダに関するタイム誌の記事
以下、記事内に引用されているフォンダの「高射砲写真」に関する発言
Here is my best, honest recollection of what took place. Someone (I don’t remember who) leads me toward the gun, and I sit down, still laughing, still applauding. It all has nothing to do with where I am sitting. I hardly even think about where I am sitting. The cameras flash. I get up, and as I start to walk back to the car with the translator, the implication of what has just happened hits me. Oh, my God. It’s going to look like I was trying to shoot down U.S. planes! I plead with him, “You have to be sure those photographs are not published. Please, you can’t let them be published.” I am assured it will be taken care of. I don’t know what else to do. It is possible that the Vietnamese had it all planned. I will never know. If they did, can I really blame them? The buck stops here. If I was used, I allowed it to happen. It was my mistake, and I have paid and continue to pay a heavy price for it