タイ演歌の名曲たち~「板切れと船」ヴァーウィー
タイ演歌の名曲「板切れと船」
地方からバンコクに働きに出た労働者の根無し草的な心情を歌って、ずいぶん前に大ヒットした。歌手は南タイ出身のヴァーヴィー。おれは「木の端」みたいなシガナイ男だから、もっとましな男と一緒になってくれ!。それがオマエの幸せのためだ、おれは身を引く・・・みたいな歌詞である。
男女の別れに関してマゾチスティックな陶酔を歌っているという意味で、千昌夫の「星影のワルツ」、欧陽菲菲の「ラブイズオーヴァー」、ホイットニー・ヒューストンの I will always love you のタイバージョンと言えるのではないか。向こうの歌は、英語で歌われるから高級に感じられるが、このヒューストンの名曲みたいに、ど演歌調の、単純、ストレートな歌詞も結構多いと思う。
つまり、「板切れと船」は演歌的マゾヒズムの極致みたいな歌なのだが、このミュージックビデオの第二部、女性側からの返歌に海難のシーンが出てくるので、英国の詩人テニスンの「イーノック・アーデン」なども思い出した。
遭難して長いこと行方知らずになっていた船乗りイーノック・アーデンが、ようやく家に戻ってみると、妻は新しい人と一緒に暮らしていた。すると、男は、愛する女性の幸せのために黙って身を引くのである。この詩は、子供の頃、少年少女向けの文学全集みたいなもので読んだ。垣根ごしに妻子が暮らす家の中を見た時の、「イーノック・アーデン悲しんだ」というリフレインが印象に残っている。(子供向けにリライトされていたようで、元の詩にこのフレーズはない)
要するに、恋愛における自己犠牲に対するこの種の陶酔感、演歌的マゾヒズムに自己を投影する人はどこの国にもいて、そういう人たち向けの歌や詩はどこの国でも作られている、あるいは「作られてい
た」・・・ということが言いたいのですな。日本の演歌だけが例外ではない。だから、英国の桂冠詩人みたいな人も、そういう主題で詩を書いている。
以下、ミュージックビデオの後編、女性からの返歌「二人だけ」。 ビユ・カラヤニという女性歌手が歌っている。
前置きが長くなった。「板切れと船」の拙訳です。
板切れと船
風に吹かれ遠くに流されて 俺は海の真ん中に一人でいた あてもなく流れていく板切れのように
夜、一人で寂しさに耐えていると 寒くて心が壊れそうになった もう俺には何の希望も無いのだと
ある日、あなたが流れてきて 板切れのような俺にあなたの手が捉まったとき 一緒に岸に流れつきたい
あなたが望む場所へ送り届けたいと思った でももう、あの岸まで辿りつく その力が残っていないんだよ
近くに船が通りかかったら あなたは躊躇わずその船に乗ってほしい
俺は、波に浮かぶ板切れみたいなもの あなたをどんなに思っても 腐った板切れは あなたを支えていられない
俺は、波に浮かぶ板切れみたいなもの 捉まって流れても、一日だってもたない だから、あなたにはあの船に乗って行ってほしいんだ
風に吹かれ遠くに流されて 俺は海の真ん中に一人でいた 弱りきった板切れはどこに流れて行くのか
一緒にあたなを溺れさせたくない あなたの夢を台無しにしたくない 俺が沈んでいったとき、あなたを絶望させたくない
だから、もし近くに船が通りかかったら あなたは躊躇わずに船に乗ってほしい
俺は、波に浮かぶ板切れみたいなもの あなたをどんなに思っても 腐った板切れは、あなたを支えていられない
俺は、波に浮かぶ板切れみたいなもの 捉まって流れても、もう一日もたない だから、あなたにだけは
あの船に乗って行ってほしいんだ
(繰り返し)
うーん、ちょっとタイタニックも入っているかも・・・
ビデオクリップはRSIAMの公式YouTube サイトからリンクした。
<了>
参考