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インドチャイナ~橋田信介、ジョン・バエズ、トンニャットホテル(三)橋田信介

akiyamabkk

  米軍がパトロールするバクダッド市内

橋田さんは、バンコクを拠点に活動していたフリーのジャーナリスト。今から17年前、戦争終結後のイラクを取材中に亡くなった。スクープを連発するテレビジャーナリストとして、業界では有名な方だったが、もう憶えている人も少ないだろう。北朝鮮の工作員に爆破された大韓航空機の機体をミャンマー沖で発見した人だ。いろいろ面白い取材談があるが、それら型破りなスクープの数々は、橋田さんが自分で本に書いておられるので、そちらをお読みいただきたい。ちなみに、橋田さんと第二次イラク戦争の取材を共にしたのが、今、このHPに手記を書いている鈴木幸男さんである。


※戦場特派員(橋田信介著)


ほとんど改まった話などしない人だったが、橋田さんが一度だけ、本音らしきことを、少しだけしみじみと語ったことがある。若いころのハノイでの体験だ。


橋田さんは、入社三年目の1972年、日本電波ニュースの特派員としてハノイに赴任している。その時、空爆下でジョン・バエズの歌う姿を見たというのである。もうずいぶん前のことで記憶があいまいだが、確か、バエズが歌っている時に米軍の爆撃が始まったが、バエズは最後まで歌って防空壕へ引き上げた、というような話だったと思う。そして、「自分はジャーナリストなので本当は空襲下の状況を取材しなければならないのに、やはり防空壕に避難させられたのが悔しかった」と話していた。


今、ローリングストーン誌の記事を読み返すと、それはおそらく、以下の場面ではなかったか。1972年12月24日、ハノイ市内のホテルロビーで開かれたクリスマスのミサである。


Joan Baez has a tape recording that she made while she was in Hanoi as a guest of the Committee for Solidarity with the American People. Other voices on the tape, recorded in the lobby of the Hoa Binh (Peace) Hotel, include the three other members of her party: the Reverend Michael Allen, anti-war vet Barry Romo, and Columbia law professor Telford Taylor, an ex-brigadier general and American prosecutor at the Nuremburg war crimes tribunal.


It was recorded at 7:30 on a cloudless Christmas eve. Reverend Allen begins the American’s personal Christmas services with an invocation. Joan Baez starts to sing the Lord’s Prayer in her familiar, soaring voice. Suddenly there is an immense concussion, the unmistakable sound of a bomb. The guitar falters, then Joan’s voice comes back strong and brave.


“Quiet,” someone shouts.


Another, louder voice yells, “No, sing on.” An air-raid siren screams nearby, cutting directly into the verse about for-giving trespasses.


「ジョン・バエズはハノイでの滞在時にある場面を録音している。『アメリカ市民との連帯委員会』が主催して、ホアビン(平和)ホテルのロビーで開かれたミサである。マイケル・アレン牧師、反戦活動家のバリー・ロモ、コロンビア大学法学部の教授、退役准将でもあるテルフォード・テイラーもその場に招かれていた。テイラーは、ニュールンベルグ裁判で検察官を務めた人である。


晴れ渡ったクリスマスイブの夜、7時半、アレン牧師が「ミサの祈り」からクリスマスのミサを始める。ジョン・バエズが 、あの耳になじんだそびえたつような声で、The Lord's Prayer (主の祈り)を歌い始めた。その時突然に大きな振動とともに轟音がした。間違えようもない、爆発音だ。ギターの音が震えた。バエズの力強く勇気に満ちた声が戻ってくる。


「静かに!」誰かが叫ぶ


別のもっと大きな声が避けぶ「いや、続けるんだ!」空襲警報の音が、歌詞の「罪を許したまえ」の章句に重なって鳴り響いた。


バエズが歌う Lord's Prayer とは、キリスト教の代表的な祈祷文「主の祈り」である。バエズはこれを Calypso Version(自己流)にアレンジして歌っていた。下のクリップの14分17秒くらいから歌が始まる。


※バエズのアルバム「息子よ、あなたは今どこにいるの?」から

Where are you now, my son?https://youtu.be/p4a8xFesASg


以下の歌詞は1662年版英国聖公会祈祷書より バエズはこの歌詞を少し変えて歌っているが、録音がよく聞き取れないので、これをあげておく。


Our Father, which art in heaven,

hallowed be thy name;

thy kingdom come;

thy will be done,

in earth as it is in heaven.

Give us this day our daily bread.

And forgive us our trespasses,

as we forgive them that trespass against us.

And lead us not into temptation;

but deliver us from evil.

[For thine is the kingdom,

the power, and the glory,

for ever and ever.]

Amen.


天におられるわたしたちの父よ、

み名が聖〔せい〕とされますように。

み国が来ますように。

みこころが天に行われるとおり

地にも行われますように。

わたしたちの日ごとの糧を

今日もお与えください。

わたしたちの罪をおゆるしください。

わたしたちも人をゆるします。

わたしたちを誘惑におちいらせず、

悪からお救いください。

国と力と栄光は、永遠にあなたのものです。

[アーメン]


ローリングストーン誌の記述には多少の脚色があるが、概ね空爆下のミサの状況を忠実に伝えているようだ。この後、バエズたちは、ホテルの防空壕に避難して、ベトナム女性が歌う「革命歌」を聞いて感銘をうけている。Where are you now My son?にはこうある。


So back into the shelter where two lovely women rose

And with a brilliance and a fierceness and a gentleness which froze

The rest of us to silence as their voices soared with joy

Outshining every bomb that fell that night upon Hanoi


防空壕に戻ると二人の女性が立ち上がって歌い始めた

明朗で峻烈、だがとても優しげな声で、

彼女たちの声は喜びに高まり、我々は黙り込んだ

彼女たちの歌声は、その晩ハノイに落とされたどの爆弾より耀いていた。


今、聞くと、北朝鮮革命舞踊団風の勇ましいだけのプロパガンダソングにしか聞こえないが、あのよう極限状況では感動的に聞こえたであろうことは想像に難くない。しかし、バエズの真骨頂は、戦意高揚の歌に感動したそのあとに、次の歌詞が重なって現れることにあるのではないか?


With bravery we have sun

But where are you now, my son?


勇敢さは太陽のように輝いた

でも、息子よ、今、あなたはどこにいるの?


バエズがアメリカの戦争政策に批判的であったことは疑いようながないが、しばしば登場するこの一連のフレーズだけは、アメリカとベトナム、戦争当事者双方に向けられているように思われるのである。


橋田さんの話に戻る。Where are you now, my son? によれば、「アメリカ国民と連帯する委員会」が主催したミサには、フランス人、ポーランド人、インド人、キューバ人、ベトナム人が招かれていたとあり、日本人は挙げられていない。また、ローリングストーン誌は、ミサが開かれた場所を、日本電波ニュースの事務所があったトンニャットホテルではなく、ビンフア(平和)ホテルだと書いてある。しかし、北ベトナム政府の信頼を得て、ハノイに支局を置いていた日本電波ニュースが、この重要な政治イベントに招かれていなかったはずはないと思うのである。


橋田さんの本が手元にないので記憶で押し通すが、もし、橋田さんが、バエズが録音していたハノイのクリスマスイブの場にいて、同じこの音を聞いていたのだとしたら、ちょっとした感慨がある。ご近所だったので時折食事に招いてもらったり、イラクで少し取材をご一緒したぐらいの淡い付き合いだったが、先に挙げた「あの言葉」が印象に残っていたからだ。


橋田さんは、特派員として、ハノイで自由に取材できず、歯がゆい思いをしたと言ってた。自分はベトナム政府の過保護の下にあったというのである。戦力で圧倒的に劣るベトナムは、対アメリカ戦をアメリカ世論との闘いだと位置づけていたようだ。だから、西側への窓口となる日本の通信社の特派員は、彼らにとって一種の「アセット」であり、死なせるわけにはいかない存在だったのではないか?あるいはそれ以上に、戦争を共に戦う「外国の友人」「貴重な同志」という感覚があり、丁重な扱いに終始したのかもしれない。彼らがバエズたちを丁重に扱ったように。


橋田さんは、ジャーナリストとして、そのような北ベトナムでの自分の待遇に、後ろめたい思いを抱いていたようだ。だから、日本電波ニュースを退社した後も、「戦場ジャーナリスト」として世界各地の戦場にこだわった。しかし、ユーゴ、カンボジア、アフガンと取材を続けても、「本当の戦場を見たという気持ちになれなかった」と言っていた。齢、還暦に達してなおイラクの戦場を目指したのは、そのためだったと思う。イラク戦終結後「還暦ジャーナリスト」のイラク取材にお付き合いさせていただいた私に、橋田さんは、「このままじゃ看板に偽りありになるからな」と冗談ぽく言っていた。「やっと本当の戦場を見れて嬉しかった」とも。


橋田さんは、2004年5月27日、自衛隊の駐屯地のあったサマワからバクダッドに戻る途中、反米武装勢力によって殺害された。ジャーナリストの生命を守ることを絶対の方針とした北ベトナムで戦場取材をスタートさせた橋田さんは、自由社会の全てのジャーナリストを敵とみなす武装勢力のテロによって、その生涯を閉じたのである。


橋田さんが亡くなってから9年後、北爆下のハノイ滞在から40年後の2013年にジョン・バエズはメトロポールハノイを再訪している。2年前に地下の防空壕を発見したホテルが、バエズを招いたのである。再訪を記念するホテルの公式ホームページによるば、バエズは防空壕の壁に手を当て目を瞑って、黒人霊歌「おお、自由よ」(Oh Freedom!)を歌った。1960年代、公民権運動の集会で彼女がよく歌った歌なのだという。


ホテルの公式ホームページには、こういうバエズの言葉があった。


「ホテルのロタンダ(円形の建物)で、1972年、クリスマスのミサを行いました。皆でクリスマスキャロルを歌っている最中に、空襲警報が鳴りだしました。停戦が破られたのです。電気が消され、蝋燭の明かりの中で、私は、The Lord's Prayer を歌いました。爆撃のため、中断してしまいましたが・・・」


ローリングストーン誌の記述は間違いで、クリスマスイブのミサは、日本電波ニュースの事務所があったトンニャットホテルで行われたのだ。橋田さんは、その場にいたばかりか、同じ防空壕に避難して、「二人のベトナム女性の歌」を聞いたに違いない。


※橋田さんについての評伝「橋田信介という生き方」によれば、ミサは実際ホアビン(平和)ホテルで開かれ、空襲が始まると、トンニャットホテルの防空壕に避難したということのようだ。同書の記述によれば、橋田さんは、その防空壕の中で、ジョン・バエズが歌うのを聞いたという。


招待のお礼に、ジョン・バエズは、モン族の少年の肖像を描いてホテルに贈った。絵は今、メトロポールハノイのロビーに飾られている。


<了>


参考


ローリングストーン誌 1973年2月1日号


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