インドチャイナ~橋田信介、ジョン・バエズ、トンニャットホテル(一)統一ホテル
- akiyamabkk
- 2023年7月31日
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メトロポールハノイのホームぺージより。

120年を超える歴史を持つトンニャットホテル。もとはメトロポールホテルというフランス人経営のホテルだったが、北ベトナムの独立後(1954年)、政府によって接収されトンニャットホテルと名前を変えた。漢字で書くと「統一ホテル」、南北ベトナムの統一を祈願してつけられた名前である。それ以降、ホテルは北ベトナム政府の迎賓館としての役割を果たす。
戦争が終わりベトナムは統一を成し遂げ、時代は一巡して、1992年、トンニャットホテルは、ソフィテル・リジェンド・メトロポール・ハノイ(以下メトロポールハノイ)という植民地時代の由緒正しい名前に戻った。ハノイ観光をけん引する民間ホテルに生まれ変わったのである。「メトロポール・ハノイ」はその後も増改築を重ねながら、コロニアル様式の重厚な外観と近代的設備を兼ね備えた、ベトナムで指折の高級ホテルとなる。2019年、このホテルが、トランプ大統領と金正恩主席との会談の舞台となった事は記憶に新しい。
2011年、ホテルが大規模な改築工事を行ったときのことである。バンブーバーと呼ばれるドリンクラウンジ後部の壁から、地下へと降りる入り口が発見された。米軍による空爆が始まった1964年、地下に作られた防空壕だった。天井は厚さ一メートルほどのコンクリートで、30人から40人が入れるくらいのスピースがあった。地下水による浸水にもかかわからず、黄色く塗られた壁と電球幾つかが当時のままに残っていたという。現在、防空壕は再現され、歴史に興味を持つ観光客に開放されている。
「豊かさ」に向かってひたすら走り続けるベトナム人が忘れていた、そう遠くもない過去の記憶がよみがえった。かつて政府公式の迎賓館であったホテルには各国の要人や多くの有名人が泊っている。米軍による空襲が始まれば、彼らはこの防空壕に避難した。1972年のクリスマス、13日間に渡って北爆下のハノイに滞在したフォーク歌手、ジョーン・バエズもその一人である。ホテルの格式に「歴史」という付加価値をつけようというホテル側の思惑もあったろう。歴史の片隅に追いやられ、ほとんど関心をもたれなくなったベトナム戦争の一コマが、ささやかながら、再び脚光を浴びることになった。
ジョーン・バエズとその一行は、1972年12月18日から、当時アメリカの戦争相手国だったベトナムの首都ハノイを訪れていた。目的は、ハノイに捕虜として囚われている12人のアメリカ兵に、家族からのプレゼントと手紙を渡すことだった。21日には、アメリカ人捕虜のもとを訪れ、同行のマイケル・アレン牧師がクリスマスのミサを主宰し、バエズが The Night Drove Old Dixie Down 歌ったとニューヨークタイムスの記事にある。これ自体が大きなニュースではなかった事は、ニューヨークタイムズの記事がほんの小さな囲み記事であったことからわかる。バエズがこの歌を選んだのは、南北戦争の南軍兵士の苦境をテーマにした歌だからだろう。あるいは、捕虜に南部出身者が多かったのかもしれない。(追記 米軍捕虜たちのリクエストだったらしい)
※The Night Drove Old Dixie Down
一行は慰問を終えたあと12月23日にハノイを離れる予定だった。しかし、米軍がジュネーブ協定に違反し、バエズがハノイ入りした12月18日から連日ハノイへの猛烈な空爆を始める。するとバエズ達は「空爆が終わるまでハノイにとどまる」と宣言してハノイに残ったのである。そのころそういう言葉があったかどうか知らないが、バエズ達一行は自ら進んで「人間の盾」となることを志願したわけだ。ベトナム戦争史上最も熾烈だったとされる空爆は、12日間ぶっ通しで続いた。ハノイとハイフォンの二つの都市に10万トンの爆弾がおとされた。これは第二次大戦の6年間にイギリスに落とされた爆弾の量を上回る。ベトナム政府の賓客として、バエズ達は空爆の市民に対する被害の生き証人となる。そしてそれは、ベトナム政府の周到な配慮のもとに行われたようだ。
バエズは、帰国後、ローリングストーン誌のインタビューに答えてこう語っている。
「ベトナムの人たちは、私たちをだんだん状況に慣れさせていきました。最初は、空爆後の瓦礫だけを見せ、赤十字の要員が働いているのを見せる。次は白い喪章を頭につけているい人たち。これはだれか近しい人が空爆でなくなったということ。破壊的な状況だが、酷いショックは与えない。女の子が自転車に乗りながら何かを言って通り過ぎていく。通訳に聞くと、『ニクソンの平和を見に来たの?』と聞いたのだという。私は通訳に『そうよ、と答えて』という。最初はそんな感じでした」
参考
ローリングストーン誌 1,972年2月1日付け