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ドキュメンタリー「アインシュタインと原爆」 映画感想文

akiyamabkk


またしても某配信サービス制作のドキュエンタリー。何故、「平和主義者」アインシュタインが、原爆開発のスピードアップを大統領に進言する書簡に署名したか」、これが映画のテーマである。答えは、自らユダヤ人でもあったアインシュタインが、ナチスドイツが先んじて原爆を手にする可能性に恐怖したから・・・なのだが、 この映画によれば、その心境は、以下のアインシュタイン自身の言葉に集約されるのだろう。


Organized force can be opposed only by organized force.

(組織的暴力には、組織的暴力によってしか対抗できない)


空想的平和主義が、ナチスドイツという圧倒的に理不尽な現実の暴力に直面し、変節を余儀なくされたのだ・・・と言えなくもない。ちょっと次元が違うが、ベトナム反戦で有名な平和主義者で、クェーカー教徒のジョン・バエズが、ロシアのウクライナ侵略では、侵略に抵抗する道を選んだゼレンスキー支持を表明したことを思い出した。


しかし、この映画、ドキュメンタリーとは言えず、ドキュドラマとさえ言えないかもしれない。映画の冒頭で、「映画はすべて、アインシュタイン自身が発した言葉、書いた言葉で構成されている」と但し書きがあるが、裏を返せば、この約束事さえ守れば、作り手は、相当程度自由に歴史的事実から飛躍して、ストーリーを構成することができるのだ。


その自由さが最大限に発揮されているのが、アインシュタインが日本人記者 Katsu Hara と対面する場面である。Hara はアインシュタインに「科学は人類の福祉と幸福に貢献するべきものなのに、あなたは、なぜ、あのような破壊的兵器の開発へ道を開いたのか」と詰問するのである。アインシュタインは、「自分は原子爆弾の開発には手を貸していない。自分が犯した唯一の過ちは、核兵器の開発を大統領に進言する書簡に署名したことだけだ」と抗弁するのだが、歴史的事実は、アインシュタインは、日本人記者 Hara には会っていないのである。


注意深く見ると、このシーンは、「苦悩するアインシュタインの見た白昼夢」として描かれているのだが、初見の無知な鑑賞者は勘違いするだろう。自分は無知だからやはり勘違いして、「そんなことがあったのか!」と驚き、調べてみるとこういうことだった。


以下、The Cinemaholic の解説記事から。


Katsu Hara は雑誌「改造」の記者で、アインシュタインに質問状を送りつけた人なのだ。アインシュタインは、その手紙に返事を書き、「改造」編集部に送った。二人の対面シーンは、その往復書簡の内容を、映像化したものなのだった。


「改造」は、戦前の左翼系有力論壇誌(宮本顕治はこの雑誌の懸賞論文で一位をとり文壇デビューを飾っている)であり、戦争末期に休刊したが、戦後、短い期間、再刊している。Hara の書簡はその頃送られたようだ。「改造」は、アインシュタインとは縁があり、戦前にアインシュタインが日本を訪問した際には、講演会を主催し、その後、博士の全論文を翻訳、出版している。


Hara については、多くが知られておらず、娘の Aoi Hara が、飛行機事故で亡くなったことくらいしかわからない・・・と Cinemaholic の記事は記している。


もし、映画鑑賞後に調べていなかったら、「戦後、アインシュタインに会って、面と向かって糾弾した日本人記者がいた!」と間違えて記憶していたことだろう。最近は、ドキュメンタリーと題されていても信用できない。くわばら、くわばら


映画では、平和主義者アインシュタインの苦悩にフォーカスし、理想化されたアインシュタイン像を描いているが、この近代物理学の創始者は、相当にタガの外れた家庭内暴力者であり、15人以上の婚外子を産ませた桁外れのウーマナイザーでもあったようだ。本当は、そういうネガティブな面も描かなければ、「伝記映画」としてはフェアではないのだが、今回のテーマは「原爆」なのだから、これは仕方がないと思う。



この映画で描かれた、社会的ペルソナとしての理想主義者アインシュタインの一面は、間違いなく存在したのだ。その点は、「公にされたアインシュタインの言動からのみストーリを構成する」という映画のセルフルールによって担保されている。ただ、写真や記録映像で表現する従来の記録映画と違って、現代のドキュドラマは、役者の肉体を通して、いやもおうもなく、ある特定のキャラクターを歴史的人物に付与してしまうのである。ここまでくると、もはや劇映画と変わらないのではないか。


ではでは



<了>

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