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あるTVカメラマンの(ベトナム)戦後史~「内藤泰子さん救出」前編

akiyamabkk

長年にわたって日本電波ニュース社のチーフカメラマンだった鈴木幸男さんの回想記です。今回は、1979年、ポト派虐殺政権崩壊後のカンボジアで行方不明になっていた内藤泰子さんの救出劇。ポルポト虐殺政権から解放されて半年後のカンボジアの姿を、率直に綴った貴重な記録となっています。この時の取材は、1979年6月29日、NHK 特集「戦火を生きた日本人」で放送されました。


<救援を求める一通の手紙> 


1979年、日本電波ニュースの支局員として前年ハノイに赴任したばかりの鈴木さんに、大きな仕事が舞い込んだ。きっかけは一通の手紙だった。鈴木さんはこう記す。


タイ―カンボジア難民キャンプで日本人から託された手紙を NHK が手に入れた。手紙の差出人は、当時カンボジアで行方不明とされていた1人だった。カンボジア人と結婚してプノンペンに暮らしていた内藤泰子氏からの手紙だった。


内藤さんは、カンボジアの外交官と結婚しプノンペンで生活していたが、ポト派政権成立後、地方に強制移住させられ行方不明になっていた。その内藤さんが、難民キャンプで生きているかもしれないという知らせに、日本電波ニュースに白羽の矢がたった。侵攻後カンボジアを実効支配するベトナムと、長年の信頼関係があったからである。



<一路プノンペンへ>

 

まずプノンペンに入って、ベトナム政府の捜索を待つことにした。ホーチミン市からプノンペンは250キロのほどで、普通に走れれば4~5時間で着ける距離だ。6月7日、日本から応援に来た先輩カメラマン石垣巳佐夫さんや(後に日本電波ニュース社長)、NHKの関係者2人と共に、支局のあったマジュステックホテルから国道1号線を国境に向かった。


クルーの中で最年少、29歳の鈴木さんの役割は、内藤さんが救出された時に行うインタビューの「音取り」だった。フィルム撮影だった当時サウンドは別に収録する。持参したテープレコーダーで音を取ることが助手としての鈴木さんの仕事だった。


ベトナム側の道中は順調に進み、クルーは国道一号線のベトナム―カンボジア国境、モクバイに到着する。



<国境を越える>


ベトナムとカンボジアの国境には、ベトナム側にもカンボジア側にも藁葺き屋根の粗末な小さな建物が建っていた。それぞれ兵士4~5人が立っており、電車の踏切みたいに道路に横棒が渡されただけのゲートが作られていた。何も無い田んぼの中にある掘っ立て小屋である。


人気はほとんど無く、カンボジア側から今にも壊れそうな自転車に乗った4~5人の人々がゲートの手前で降り、兵士の前を通り過ぎてく。それだけであった。我々は外国人であるため、車から降りて顔見世する。別にパスポートのチエックは無く、随行のベトナム人が書類を見せて説明している。何事も無く通過、100メートル位離れたカンボジア国境ゲートの兵士は書類を確認してゲートを開けてくれた。


カンボジアに入ったという感じはなかった。窓の外を眺めると2~3人の黒い人間が田んぼの中を動いているのが見える。乾季のため車の走った後には物凄い砂埃である。



<ベトナムへの不信を痛感した「抉られた道」>


ベトナム側が用意してくれた取材車はソ連かチェコ製のバスであろう。30人位乗れる小型バスである。もちろんクーラーなど無い。運転席の横の助手席に陣取った、対外文化委員会の案内役兼お目付役のルオンが、足でAK(カラシニコフ)を押さえながら周りに目を配っている。


しかし道の前方も左右の田んぼの中にも人影は無かった。砂煙を上げて走れたのも10分と続かなかった。左右から互い違いに抉られた道路が現れた。バスは右左に蛇行しながらノロノロと進む。これはクメール・ルージュがベトナム軍の戦車の進行を止めるために掘ったのだという。たしかにバイク、自転車は穴を避けながら走行が可能であるが、車は極端に速度が落ちる。「なるほど」と納得する。


風景は明らかに変化してきた。田んぼの中に砂糖椰子の木が目立ってきた。蛇行しながらどのくらい走ったのだろうか?ようやくまともに走れるようになったが、道路はアスファルトが剥がれまともにスピードは出せない。相変わらず周りに人の影はちらほらとしか見えない。集落も見られるが人影は無い。


途中降りて昼食をとった時、対外連絡部のルオンが虐殺現場に連れていってくれた。クレーター状に土が陥没し、そこに草が生えているだけで、「虐殺現場」と言われても実感がわかない。


マンゴーの木の下で、マジェスティックホテルで用意してくれたサンドイッチに、ぬるいドリンクで昼食にかかる。ベトナム製の緑色の甘ったるい清涼飲料水である。見上げると、木の枝に大量の赤蟻がたかっているのを発見し、慌てて食事場所を移した。この蟻、噛みつかれて振り払おうとしても、頭が千切れるまで放そうとしない。噛まれた瞬間飛び上がるほど痛いし、その後もしばらくズキズキと痛む。



国道一号線を走ること4,5時間、鈴木さんたち一行は、メコン川にあるネアクルンの渡しに到着する。幅600メートルほどの川に当時橋は無く、2015年4月、日本政府の援助で「つばさ橋」が開通するまで、両岸を結ぶフェリーが川を渡る唯一の手段だった。ここからプノンペンまでは65キロの道のりである。この渡し場で鈴木さんが見たのは、解放後半年たった後も生気の感じられない、カンボジアの人々の姿だった。



<ネアクルンの渡し>


黒色の集団の群れ。スボンも服も黒である。裸足。生気が無くヨタヨタと動いている。


ネアクルンの渡しでは、ベトナムから持ってきたと思われるフェリーが動いていた。待つことも無くすんなり渡る。一緒に乗り込んだ人々、目だけギラキラして皆黙ってこちらを見ている。


今までの道のりで、ほどんと車とすれちがわなかった。たまにすれちがうのは兵隊を満載にしたベトナム軍の車両だけだった。


船着き場を渡って道はだいぶん良くなった。道々に少しずつベトナム方向に向かう集団が現れた。天秤棒の両端に荷物を括り付けた者、荷車に荷物を乗せて歩いていく集団。スボンも服も黒一色である。クロマー(※カンボジア人が首に巻くスカーフ)の色が少し違うぐらいの変化しか無い。だんだん増えてくる。誰も話などせず黙々と歩いている。


ベトナムへ向かう集団は、プノンペン市内に入っても続いていた。ポルポト時代に強制移住させられたベトナム国境近くに住む住民が、自分の村に帰るのだとの事である。



ポルポト政権は、中国の文化大革命をモデルに、都市から住民を農村部に「下放」する政策を強引に推し進めた。結果、都市機能は崩壊し、かつて東洋のパリとも言われた首都プノンペンはゴーストタウンと化していた。到着したときには日は暮れており、暗闇の中、鈴木さんは幻想的な光景を目にすることになる。



<夜のプノンペンに到着>


プノンペンに到着したのは、もう日も落ちた黄昏時だった。ビル街が黒くシュルエットに見えてきた。道路はかなり広く、直線だった。


その両サイドにポツリポツリと焚き火の様な明かりが続いていた。よく見ると移動する人々が飯の用意をしているのだった。服が黒いため焚き火の明かりが鮮明に見えた。ビルの谷間と、そこに灯るユラユラ揺れる炎とのアンバランスが別世界のように感じられた。


日が落ちて暗くなった頃ようやくプノンペン中央駅近くのホテルに着いた。電気が点いていた。何かホッとした。外国人が泊まれるホテルほ現在ここだけだった。


ホテル従業員はベトナム人だった。ハノイの各ホテルから派遣されたという。食事ほとんど缶詰だった。お金が通用していないので買い物が出来ないのだとの事。白いテーブルクロスが場違いな感じたしたのを覚えている。



明けて翌朝、石垣カメラマンと撮影を始めた鈴木さんは、白日にさらされたプノンペンの無残な姿を見る。



<廃墟の首都、黙々と動く人々>

 

翌朝、空は晴天だった。すぐ近くの大道路に出てみると、路には白い粉が舞い散っていた。歩道には、昨夜見た陽炎のような焚き火のあとの灰が転々と残されていた。


黒い服の集団がもくもくと動いていた。道路に散乱していた白いゴミは、故郷に帰る移動者が住居に侵入し金目のものを物色した後だと聞かされた。


プノンペン市民が強制移住させられる時、あまりにも早急な命令だったため他に隠す事が出来ず、金などを住居内に隠したらしい。その噂が移動者に広がり、皆、金目のものを物色していったという。


白い粉と思われたのは、枕や、布団の綿であった。


元中央銀行は爆破され、近くの道路に札束が散乱していた。近くでその札束で炊事している家族がいた。奇妙な光景だった。


お金は流通していなかった。コンデンスミルクの缶で米を計りその量で物々交換だった。地べたに並べられた商品の中にタバコがあったので、とっさの場合の雨具代わりの黒いゴミ袋を出して広げ、交換出来ないかと差し出すと、タバコ3本で交換出来た。


街には殆ど住んでる人は居ないらしく黒い集団がうごめいてるだけである。


ベトナム軍がトラックに米を積んで来て、街中で米の配給をしていた。精米した白い米である。黒い集団がトラックの周りでうごめいているが声は聞こえない。クロマーで米を受け取ると肩に掛けて去ってゆく。け取るものの顔に喜びの表情はなかったが、ベトナムも世界中から嫌がらせを受け食料不足なのにたいしたものだと感動した。


街の大通りは、砂を入れたドラム缶が並べられて、至るところ封鎖されていた。車はほとんといないのに不思議だと思ったが、土嚢の代わりだと聞かされた。


プノンペンは東洋のパリと呼ばれていた通り、直線と円で構成された綺麗な町並みだった。中央市場の円、道路のロータリーの円、車がほどんと走っていないため道路がやけに広く感じる。


中央駅、メインストリート、破壊された銀行、中央市場等、目につく物の撮影を進める。どの場面でも人々は集まってくるが、ざわめきは無く目だけがギラギラしている。裏通りに入ると汚なさは一段ひどくなる。ベットや家具が道路に散乱している。



鈴木さんと石垣カメラマンが、解放後のプノンペンを撮影している間にも、ベトナム軍による捜索は進んでいた。そして、6月17日、朗報が入る


 

<内藤泰子氏救出!>


内藤泰子氏の行方はベトナム軍が捜査していた。無線で連絡が入るのか少しずつ情報が入るようになった。何日もしない内に、本人をヘリで運んで来るという連絡が入った。


当日、ポチントン空港で待ってる我々の前に米軍の使用していたガンシップが降りてきた。ヘリのローターがまだ回転しているなか、髪の毛を無造作に後ろで束ね、クロマーで包んだ小さな荷物をもった婦人が降りてきた。


不安そうな顔をしながら、彼女は我々に「日本人ですか」と問いかけてきた・・・


以下、内藤泰子氏編第二回に続く。




参考


日刊ベリタ ポルポト政権崩壊直後の光景 ~カメラマン石垣巳佐夫氏のカンボジア体験~



◇鈴木幸男 1950年茨城県生まれ。1975年に日本電波ニュースに入社。1976年、解放後のベトナムを初取材後、79年にポト派政権崩壊後のカンボジアでカメラマンデビューを果たす。1980年6月から1981年6月までホーチミン特派員を務め、日本電波ニュースの主力カメラマンとして、ソ連の崩壊、カンボジアPKOなどを取材して1998年退社。バンコクに写真店を開業する傍らフリーランスとして活動する。2001年に911テロ後のアフガン国境、2003年には故橋田信介氏と共に戦時下のイラクを取材する。2004年テレビカメラマンを引退。



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