以上、日本軍の緒戦の勝利にピブン首相が「会心の笑み」を浮かべるシーンで八原の手記は終わっている。「私の推測にすぎないが」とか「私個人の意見だが」という留保を何度もつけながら、八原が言いたかったのは、太平洋戦争開戦日直前、ピブン首相が行方不明になったのは、偶然ではなく、首相の計画的行動だったということのようだ。
結果、日タイ双方が数百人単位の犠牲者を出す混乱が生じたが、ピブン首相はこれによって日本の戦争に「協力もやむなし」という国内政治的な名分を得ることができたし、戦後のタイの国際舞台での立ち回りにおいても、米英に対して、「日本と一度は戦った」という免罪符を得ることができた。どこまでを計算した行動だったかはわからないが、結果としてピブン首相とタイ国は、そのような政治的利益を得たわけだ。
八原の手記が書かれたのは、本文の記述によると1956年、太平洋戦争の開戦から15年、終戦から11年が経過している。八原が新しく発足した自衛隊への就職の誘いを「もう二度と人に死を強いるような仕事にはつきたくない」と断って、反物の行商で生計をたてていた頃である。どういう経緯でこの手記が書かれたのか詳らかではないが、本文中に出てくるルンピ二公園の記述などに、公式文書ではありえないノスタルジックな気分を感じるのは私だけだろうか。
出典は、早稲田大学のオンラインライブラリーから。PDF版で公開されているのは、タイ語訳が掲載された「シラバワタナターム(芸術文化)誌)」の白黒のコピーである。途中、訳者である村嶋氏のものと思われる訂正の書き込みがあり(例えば「内務省」を「国防省」に訂正したりしている)、おそらくご本人から提供された資料かと思われる。ピブン首相との交渉に同席した日本側将校の証言は、タイ人にも興味深かったようで、タイ国軍司令部が編纂した「タイ大東亜戦争史」という書籍にも、この手記が引用されている。ちなみに「大東亜戦争」というのはタイ側が使っているあの戦争に対する呼称の直訳である。
本来ならば、八原博通氏の防衛省研究所にある原文資料にたどり着いて引用するのが一番いいのだが、これはネットでは入手できず、それ以上の追跡はバンコクにいる自分には不可能だった。そうとうにまどろこしい、異様な作業で気が引けたが、上記の事情で、日本語からタイ語に訳された文書を、もう一度日本語に訳すという奇妙な事をすることになった。浅学を顧みずこのような事をしたのは、タイ在住30年になんなんとして、日タイ間の歴史の決定的場面について無知なのが恥ずかしかったからである。
以下、いくつか補足しておく。
ピブン首相の不在を「単なる偶然ではない」と感じたのは八原でけではなかったようだ。当時のタイ大使館通訳官で、開戦前後の数年間、ピブン首相と交渉で向き合った天田六郎氏によれば、日本側交渉団の中で、ピブン首相の不在の理由を額面通り信じていたものは「一人もいなかった」そうである。ではどういう風に見ていたかというと・・・
以下、天田六郎「シャムの三十年」P232-233より
「日本軍部隊のタイ領土平和進駐に関する正式要請交渉は、12 月 7 日からピブン首相公邸で行われた。タイ側から最初に交渉相手として出席した人たちは、ピブン首相の軍人派に対 する文治派の統領プリディ蔵相とその腹心のディレーク外相の外、外務省顧問のプリンス・ ワンワイなど、皆親英米派の領袖のように目されている人々であった。しかし、ピブン首相が地方視察の旅行中ということで、タイ側は一向に要領を得させずに終始した。これらの文治派の人々は、その後の何回かの会談の場には、一切姿を見せることなく、代わって出て来たのは、親日派と目され、当時日本側とピブン首相側との間の連絡係のような立場にいたワ ニット氏であった。」
「(天田注)この時のタイ側の態度に関し、タイ首脳陣とて,10 月 11 月頃あたりの極東地域のただならぬ情勢の動きを観て、合議の上首相は何れにか身を潜めて、米英側の出方を凝視していたのではなかったか。と申すのは、その頃米英側は、タイ国が侵略を受ける如き場合は、連合国側は直に適宜の処置を講ずるであろうと、タイ国の安全保障に関する声明を発表していたからであった。ピブン首相が翌 8 日朝になって、旅行姿のまま初めて日本側の人々の前に姿を見せたのは、南タイ半島部の東海岸各地は申すまでも なく、首都バンコク南郊にまで、すでに日本軍の大部隊が押し寄せて来ているので、漸く観念のほぞを固めたのであろうと言うのが日本側の交渉に当たった人の観方であっ た。」
2005年に亡くなったタイ研究者吉川利治氏にいたっては、タイ側が首相不在の理由とした「タイ外交官日本軍殴打事件(通称「シュムリアップ事件」、これに激怒したピブン首相が真相究明に自らシュムリアップへ赴いたとされる)」自体、存在しなかったのではないかと疑っている。吉川氏は、ピブン自身の手記から開戦直前の首相の行動を引用したうえでこう書いているのである。
「ピブーンは激昂もしておらず、シエムレアブにも行っていなかったのである。 シーソーボンからは反対のバ ッタ ンバ ンに向かっていたのである.
それも、まだ行ったことがないからと、まるで物見遊山のような気分である。 3軍の総司令官が陸軍司令官を連れ、行き先も帰還予定の日時も告げず、無線ラジオも携行せず [Prayun 1975:459]、国家がまさに危急存亡の際にたっているにもかかわらず、バンコクを留守にした。」
「ピブーンは 3 カ月前の 9月 8日に「仏暦2484年 (1941年)戦時下におけるタイ国民の義務を規定する法」という法律まで発布して、全国民は最後まで敵と戦えと規定していた [Thaemsuk 1978: 2]。 もしピブーンがバンコクにいれば、日本大使と交渉の上、日本軍の進駐を認めなければならなかったであろう。 徹底抗戦を国民に呼びかけてきた軍人宰相にとって、それは面目丸潰れと判断したのであろうか。 察するに、 唯々諾々と日本軍の進駐を認めるよりも、進 駐してしまってから、余儀なく認めざるを得なか ったという態度をみせる方が、少しは日本軍と抗戦してみせたことにな り、国民を納得させられると考え、日本軍侵入の時機に、バンコクを離れたのであろう。 さらに日本側には、いささかもタイの名誉と面目を傷つけてはいけないという態度を示さねばならなかったから、 抗議文を届 け、激昂して出張したと伝えさせたのであろう。 本当はシエムレアプ事件は架空の事件であったのであろう。7)」
・・・として脚注では、こうも書いている。
7)「シエムレアプ事件を載せているのは、Flood [1967] だけである。タイ側の資料、文献は全て前線視察となっている。 Floodの論文はそのほとんどを日本の外務省外交史料文書、防衛庁史料編纂室の史料にもとづいており、この事件も田村報告によっている。日本大使館を牽制し、さらに自ら抗戦命令を発令するのを忌避するため、でっちあげられた事件であった可能性が濃い。」
Flood というのは、米の歴史家、Flood E Thadeus のことで、Japan's Relations with Thailand 1928-41 という研究書を1967年に出版している。太平洋戦争までの日タイ関係を詳述した基本文献らしく、さまざまな論文で引用されている。今でも電子版が25ドルで購入できるが、ネットでロハで入手できる情報だけで書く方針なので購入しない。
吉川氏によれば、この研究書が、田村武官の報告文書をもとに、シュムレアプ事件に触れている他は、タイ側の資料に同事件の記述はないというのである。「日本側はタイ側の説明を真に受けていなかった」という前述天田氏の回想を信じるならば、おそらく田村武官は、タイ側からそう説明された以上、そう東京に報告するしかなかったのではないか?タイ側の資料やピブン首相自身の回想記においても、事実は、「東部国境に視察」ということになっているそうである。
ちなみに、この Flood の書籍には、<ピブン首相が開戦時の日本軍の通行許可を、海軍武官鳥越新一大佐に口頭で密約していた>という内容の記述もある。1940年10月1日という日付つきである。(開戦の一年以上前、八原中佐が情報収集の密命を帯びて、三菱バンコク社員と身分を偽ってタイに潜入していた時期である。この時八原は、後に日本軍の作戦地点となる、東部国境やマレー国境近くの海岸線を偵察している)吉川氏によると、前記 Flood の本は、日本側の資料に基づいているとのことだから、鳥越大佐自身がそう証言している可能性が高いのではないか?
また、朝雲新聞社刊の「戦史叢書 マレー侵攻作戦」にも、ソンクラ(タイ南部の都市、タイにおける日本軍の最初の上陸地点で、マレー方面侵攻への基点となった)上陸時、<タイ政府から通行許可の内諾は得ている>という情報があり、そのため部隊には楽観ムードが漂っていたという記述がある。実際は上陸時まだピブン首相は行方不明だったのだが、上記の「ピブン首相密約」のような交渉過程の秘密情報が、部隊内に広がっていた可能性はあるのではないだろうか?
いずれにしろ、日本軍は、真珠湾での奇襲には成功したが、遠く離れたここタイでは、「行方不明になる」というピブン首相の奇策に翻弄され、最高司令官不在のまま戦ったタイ軍、警察から相当の打撃を受けた後、やっとのことで協力の合意を取り付けて、「平和進駐」の体裁を保つことができた。これがタイへの「平和進駐」の実像だったのである。
今では、日本人はおろか、タイ人もそれほど興味を持つこともない歴史の一コマかもしれないが、開戦80年という記念の年でもあり、タイに長年お世話になっている日本人としては知っておくべきことかと思い、少し勉強してみた。
<了>
参考