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八原博通が見たピブン首相の「会心の笑み」(1)~「シラパワタナターム(芸術文化)誌」1986年7月号より

akiyamabkk


※2022年2月に投稿したものを再投稿


高級参謀・八原博通大佐。沖縄決戦の作戦参謀として有名な人物だが、太平洋戦争の開戦時には、日本大使館の武官補佐としてバンコクにいた。八原は、開戦前年の1940年9月に、民間人に身分を偽ってタイに潜入し、マレー侵攻作戦で日本軍の上陸地点となったソンクラ県(当時のシンゴラ)の海岸線を偵察している。翌年、武官補佐に任命された後も、大使館での役職は名ばかりで、外交官としての地位を利用し、サイゴンとバンコクを行き来して情報収集するのが本当の任務だったようだ。


その八原大佐が、1941年12月8日、開戦当日のピブン首相の様子を詳しく書き残し、それが防衛省の資料として残っている。ここでは手記のタイ語訳から、緊迫した状況下に悠揚迫らぬタイの軍人宰相の横顔を摘出し、その様子をまじかに見た陸軍高級参謀の、胸中にまき起こったある疑問について紹介してみたい。


太平洋戦争の開戦前日の1941年12月7日、バンコクの日本大使館では、当時のタイの首相ピブン・ソンクラームを晩さん会に招き、頃合いを見て、日本の企図を打ち明け、戦争への協力を求める手はずだった。真珠湾を始め日本軍の作戦は奇襲を前提としていたから、開戦の日を敵側に知られることは避けねばならず、当時友好関係にあったタイとも事前に交渉することができなかった。そのため、日本側は作戦を和戦二つに想定し、タイ側の協力が得られた場合には、日本時間零時までに陸海で待機する部隊に知らせることになっていた。


しかし、想定外のことが起きてしまう。シュムリアップ州でタイ人外交官(フランスとの国境策定委員会の委員)を日本軍が逮捕したことに立腹したピブン首相が、周囲に行先も告げずに、ようとして行方をくらませてしまったのである。独裁的権力者だったピブン首相が不在では、日本側が米英への宣戦布告を伝え、ビルマ、マレー方面へ侵攻するための領土内通行を求めても、タイ側は右往左往するばかりだった。


8日早朝、ピブン首相はまだバンコクに戻らない。八原中佐(当時)は、バンコク近郊のバンプーに赴き、上陸する部隊に交渉の状況を知らせ、タイ側の陸海軍幹部と共に、両軍の無用の衝突を回避させた。南部の上陸地点では既に戦闘が勃発しており、タイの国民感情に大きな影響を与える首都近辺での衝突は是が非でも避けなければならなかったのである。しかし、重要任務を成し遂げた後、国防省に向かった八原を待ち受けていたのは、タイ側将校の敵意に満ちた視線だった。


以下、八原の手記「タイ進駐とピブン首相の役割」のタイ語訳から。


「内務省についた時、タイ側の将校、総計20~30人がそこここに立っているのが見えた。到着して車から降りると、彼らの視線が一斉に我々に向けられた。明らかに敵を見るまなざしだった。この瞬間にも我々が味方となるか、敵になるかが決まるのである」


「その時私は、大国の軍人にふさわしい立派な態度で、部屋に入らなければならないと考えていた。一方で、日本とタイの現在の状況がもたらす、緊迫した雰囲気に恐怖を感じていた。我々は急ぎ足で国防省の階段を上った。小さな会議室にピブン首相がいた」


日本側交渉団に同行した八原は、そこで、小柄だが威風堂々、緊迫した状況に余裕たっぷりのピブン首相の姿をつぶさに観察するのである。


・・・・・・・


タイ政治史の権威、村嶋英治氏がタイ語に翻訳、ソラサック・ガームカチョーンクンキット、チュラロンコーン大学教授が監修し、「シラパワタナターム誌」(芸術文化誌)に掲載された手記から、80年前に日本とタイの間に起きた、ある歴史的瞬間を振り返ってみる。



<参考>





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