By Hideki AKIYAMA
※以下の記事は、2021年6月2日に投稿された。タイの保健ボランティアは、コロナ流行の当初、ウィルスの情報提供、手洗い、マスク着用の奨励、検温、感染者の早期把握などに活躍し感染拡大の阻止に貢献した。多くは高齢者からなる、地域に密着したボランティアたちが、地道な努力によってコロナウィルスによる被害を最小限に食い止めたと思われたのだ。WHO、世界保健機關はタイの保健ボランティアを「名もなき草の根のヒーローたち」と称えさえした。
しかし、ウィルスの現実は残酷だった。ミャンマー人労働者が多く住むバンコク南郊の港町からコロナの感染第二波が始まり、その後、新型ウィルスは莫大な被害をタイにもたらすことになる。感染爆発が起こった港町・マハチャイのあるサムットサーコン県は、タイで初めてマスクの不着用に罰金を課した自治体であり、簡易検査を導入して迅速な感染状況の把握に努め、外国人労働者を保健ボランティアに組織する試みを進めていてた。当時、これらの取り組みは「サムットサコーンモデル」と称賛され、コロナ対策の模範とされていただけに衝撃は大きかった。
結果として、気まぐれなウィルスの猛威に苦杯を舐めることにはなったが、タイの保健ボランティがコロナ流行初期の感染拡大阻止に貢献し、現在でも、タイの保健医療の向上に大きな役割を果たしている事に変わりはない。ここでは、保健ボランティア制度の父とされる、あるエリート厚生官僚の生涯を取り上げ、本人のインタビュー記事をもとに、今や世界に冠たる医療ボランティア組織となったタイ保健ボランティアの設立までの道のりを振り返っている。
今日は6月2日、保健ボランティア制度の生みの親、アモン・ノンタスット医師の命日である。アモン医師は昨年のこの日、コロナ感染防止への貢献により保健ボランティアが脚光を浴びる最中、92歳の生涯を閉じた。
アモン氏の死を受けて、アヌティン保健大臣は「40年前、タイ人の健康増進のため根幹となる制度を作っていただいた」と感謝のツイッターを送っている。保健省の次官にまで出世した人だが、世間的には無名で、コロナ禍がなければ、おそらく忘れられていた人だろう。WHO の言う Unsung Hero は、こういう人にふさわしい呼び名かも知れない。
この機会にアモン医師の業績を少し振り返っておきたい。以下2013年7月にHfoucusに掲載されたインタビューより。
1928年、アモン医師は、タイの首都バンコクで、高級軍人の息子として生まれた。1953年、25歳で医科大学を卒業すると、タイ北部のプレー県に保健省の医師として赴任する。当時大学出の医者は県内に自分一人だったという。アモン医師はHfocus誌のインタビューでこう語っている。
「赴任したプレー県では、部下は年上の保健所スタッフばかり。どうしようかと不安だったが、一緒に森に入って村人を治療をするうちに、だんだんと可愛がられるようになった。彼らとの巡回診察は村人たちと触れ合う貴重な経験だった。そこで私は、村人の窮状をつぶさに見た。病気をしたら牛を売らなければならない。病状が重くなって入院すると、家や田畑を売る。破産することもまれではなかった」
「このままでは続かない。医師は私一人、自分が県全体の患者を治療するわけにはいかない。その時、子供の頃、病気になれば、周りの大人たちがクスリをくれ、頭を撫ぜながら、添い寝してくれたことを思い出しました。その経験が、ヒントにならないかと」
しかし青年医師は赴任地の当面の課題に忙殺されることになる。当時、プレー県で蔓延していた甲状腺腫への対策である。この病気には、アモン医師は特別な思い出があった。幼い自分を世話してくれた乳母が甲状腺腫を患い、首に大きな腫瘍があったのである。アモン医師は乳母の大きなこぶを撫でながら育ったのだ。
アモン医師がとった方策は、UNICEFと保健省食品栄養局のサポートを得て、ヨウ素添加食塩を普及させることだった。県内で初の食塩工場を立ち上げ、商品を町の市場で売った。
「バンコクから食塩が届くと、工場でヨウ素を混ぜて、プレーや隣のナーンの町で売った。結果は満足できるものでした」
導入前84.8%だった甲状腺腫の罹患率が、3年でで32.6%に減り、5年後にはほぼゼロにまで低下したのである。
本省に戻った後、アモン医師はハーバード大学へ留学し、公衆衛生を学ぶ。帰国後の1968年、アモン医師は、ふたたび北タイのチェンマイ県に保健医として赴任する。
そのころ、同じタイ北部のピサヌローク県ワットボート郡では、ソンブン・ワチャロタイ医師とカムトン・スワンナキット医師が、農村部での公衆衛生向上プロジェクトを進めていた。当時、保健省は、全てのタンボン(村と郡の中間にあるタイの行政単位)に保健所を設置しようと努力していたが、思ったほどの協力を村人から得られないでいた。
留学帰りで自信とアイディアにあふれていたアモン医師は、二人の先輩医師の試みに触発され、赴任地で独自のプロジェクトを始める。
「やるべきことはお二人のプロジェクトと同じだった。しかし、仕事の仕方、コンセプトが違った。ワットボートのプロジェクトは青年たちをお金で雇っていた。私は、その土地の年長者、村で尊敬されている人に、ボランティアとして協力してもらうことが、プロジェクトの成功につながると思いました」
まず、アモン医師が試みたのは、村に「保健情報コミュニケーター」という役職を作り、保健、衛生情報のセンターとすることだった。
「村にはすでに情報網があり、そこで情報を交換しあっている。問題はだれに協力してもらうかです。私は、ハーバードで学んだ Social Matrics の手法を使った。『病気になった時、誰に相談しますか?』など3つくらいの簡単な質問して、村人に名前を3人上げてもらう」
「調査の結果、村人が上げる名前は、だいたいの場合、村の年長者で、村人に影響力のある人たちだとわかった。そして、この人はどこの人、この人は誰とチェックしていくと、だいた15世帯に一人、そういう人物がいることがわかりました」
アモン医師は、こういう村の年長者たちをリクルートし、保健や公衆衛生の知識を村に浸透させるために働いてもらったのである。
「まず、彼らと話し合いました。そういう時、『村人たちは、何か問題があったらあなたに相談するというのです』と話をする。すると、自分が村人に評価されていることを誇りに感じて、ほとんどの方がこの役職を引き受けてくれました」
アモン医師は、村人が、健康問題を、自分たちなりのやり方で解決していることに気付いていた。しかし、それは経験に基づくもので、科学的な基礎に欠けている。村人に医学的な基礎知識や、治療方法を教育すれば、村落レベルでの医療は飛躍的によくなるかもしれない。
「私は『村落保健ボランティア』の発想を得て、普通の村人に初歩的なプライマリーケアーの教育を受けさせようと考えた。しかし、最初からそこまでやるのは難しかったので、まず、保健情報コミュニケーターの人たちに、『プライマリーケアーの講習を受けて村人に初期段階でのケアーができるようになってくれないか』と持ち掛けたのです」
快諾してくれた彼らは、全て無給のボランティアだった。
「お金は払わなかった。お金を介在させるなど、みっともないことなのですよ。彼らはすでに村で尊敬を受けている年長者だったから。お金をもらっていないから、自分たちのやっていることに誇りが持てたのです。他の国で同じようなプロジェクトが持続しなかったのは、お金で人を動かそうとしたから。根本が間違っていたのだと思います」
「偽医者を作ろうとするのか?という批判もあった。批判は主に同僚の医師たちからだった。彼らにすれば、こういうことは政府の仕事、役人の仕事なのです。しかし、私のような田舎医者の経験があるものには、一人で全ての患者の面倒を見れないことは、わかりきった話だった」
1977年、保健省の副次官に昇進していたアモン医師は、第4次経済社会開発計画(1977年~1981年)の策定に関わることになる。アモン医師は、長年取り組んできたプライマリーヘルスケア―の問題を、開発計画のテーマに据える。
その頃、WHO(世界保健機関)でも、Mahler T. Haifdan 事務局長が、Helth for All のスローガンのもと、住民参加型のプライマリケアーの構築を推奨していた。当時は、まだ、第三世界に思想的影響力のあった中国共産党の「はだしの医師」制度なども、こういった国連のポリシーに少なからぬ影響を与えていたようだ。国連がプライマリーヘルスケア―の原則を定めた「アルマアタ宣言」には、タイ政府も署名している。
しかし、アモン医師はこの国連プロジェクトにいささか批判的だ。
「村人を保健プロジェクトに参加させるというアイディアには共感しました。医師に頼っているばかりではだめだ、ということは分かっていたましたから。」
「しかし、Haifdan事務局長は、医師をプロジェクトの主人公にするという間違いをおかしました。当時の発展途上国の医師は大変なエリートで、権威主義的でもあり、村人が医療に口をだすことなどもってのほかだった。これがWHOのプロジェクトが我々ほどうまくいかなかった理由だと思います。プロジェクトの主役はあくまで村人であるべきでした」
1980年アモン医師は政務次官に昇進し、乳児へのワクチン接種や、体重測定、栄養チェツクによる子供の健康管理など、プライマリーヘルスケア―分野で懸案だった政策の導入に力を尽くす。
「私は、村人が自ら立ち上がって、家族の健康を守るために行動するようになって欲しかった。従来の考え方では、村人が自ら考えて行動すると、役人は失敗したとみなされたのです。役人はすべてを与える側でなければならなかった」
「役人は国民に一方的に行政サービスを与えるもの、と考えていたため、病気になってから介入することが当たり前になり、村人に予防してもらうという観点が希薄だったのです」
1977年、アモン医師らの尽力により、保健ボランティア制度は、全国70余県のうち20県で実験的にスタートした。プロジェクトに参加した県の全てのタンボン(※タイの行政単位、前述)に、保健情報コミュニケーターと村落保健ボランティアがおかれることになった。
その後、保健ボランティア制度は順調に発展を続け、20年後の1997年にはボランティア数68万、30年後の2007年には80万人を超える巨大組織に成長する。発足後40年を過ぎた2020年、ボランティアは100万人を超え、コロナ第一波防止の中核として、WHOが「名もなきヒーロー」と称える大きな貢献を果たしたのである。その最中の6月2日、アモン医師は92歳で生涯を閉じた。
アモン医師は、保健ボランティア発足30年の記念インタビューで、このように語っている。
「保健ボランティアが成功した理由の一つは、WHO のスローガンだった<Health for All> では村人に伝わらないと考え、独自のアイデアを加えたこと。我々はQuality of Life for ALLとスローガンを書き換え、生活向上プロジェクトの一分野として保健プロジェクトを位置づけました。この政策変更を Halfdan 事務局長に告げた時の彼の怒った表情が忘れられません。しかし、どちらが正しかったのか、その後の結果で明らかでしょう」
「文化的な要素が大きく関わっています。ボランティアたちは、お金のために何かをやる人たちではなかった。中にはそういう人もいるでしょうが、ほとんどの人はそうではない。そして、その精神が世代間に受けつかがれたのです。今、ボランティアをやっている人のほとんどは、親がボランティアとして働くのを見て育った、息子たち、娘たちなのですから」
<了>
参考
Hfocus 2013年7月20日号
「保健ボランティア創設30周年」タイ保健省のリポート