あるTVカメラマンの(ベトナム)戦後史~「内藤泰子さん救出」後編
◇ベトナム軍に保護されていた内藤さん
ベトナム政府が「捜索」していた内藤泰子さんは、タイ国境に近いシソフォンという町にいた。ポト派政権崩壊時、カンボジア北部にいた内藤さんは、ポト派兵士の目をかいくぐり、養女の実家のあったこの町に逃れてきた。そして、町の役人に日本のパスポートを示して「私は日本人、日本へ帰りたい」と訴え出たのだった。しばらくして内藤さんはベトナム軍に保護され、ベトナム兵の監視のもとではあるが、食事なども不自由のない待遇を受ける。
そういう暮らしが4か月ほど続き、内藤さんが「これではいつ日本に帰れるかわからない」と焦り始めた頃、養女の父親が現れ、「タイ領内へ一緒に密出国しないか」と誘った。悩んだ末、越境をあきらめた内藤さんは、日本政府あてに救出を願う手紙を書いて父親に託す。この手紙が、越境に成功した養女の家族から、報道関係者の手に渡り、日本赤十字へとリレーされて、今回の救出につながったのである。
6月17日、シュムリアップの空港で、迎えに来たベトナム人将校から「内藤泰子 46歳」と日本語で書かれた写真を手渡された時、内藤さんは「これで助かった」と泣き崩れたという。内藤さんは、ベトナム軍のヘリコプターに乗せられプノンペンに向かった。
◇インタビューと当時の機材事情
プノンペンの空港で内藤さんがヘリから降りるシーンを撮影。「日本人ですか」と尋ねる内藤さんに、こちらからも「内藤泰子さんですか?」と聞き返す。ヘリコプターの音が煩く、空港での会話はその程度だった思う。ホテルに戻りすぐインタービューに入る。
鈴木さんの仕事は、インタビューの音の収録の他に、当時ならではの助手の仕事があった。フィルムの交換である。内藤さん生還の感動もつかのま、鈴木さんは「技術屋」としての仕事に忙殺されることになる。
今回の取材の眼目は、生還した内藤さんに当時としては長めのインタビューをすることだった。しかし、その頃、ニュース取材の定番だったアリフレックスSTカメラは、100フィート3分のフィルムしか装填できない。400フィート12分のフィルムもあるが、そのためには、外付けのマガジン(フィルムの送り出し用と巻き取り用に二つある)を使用する必要がある。結局、100フィートを使うことに落ち着いたが、取材クルーは、インタビューがスムーズに進むようにある工夫をしたのである。
◇当時の撮影事情、音はおまけ?
当時ドキュメンタリー制作は画像が中心で音は付属みたいなものだった。現在のビデオカメラのようにスイッチを押せば動画と音が記録されるものでは無く、絵と音を別々に記録しなければならない。我々は当時画期的と言われるカセットテープを使用するレコーダーを持ち込んでいた。今までは音を収録する時、オープンリールを使用するかなり大きめのテープレコーダーが主流だった。カセットテープが使用できる用になって、音声機材は3/1位に小さくなっていた。
編集は絵の口元を見ながら、だいたいこの辺であろうとかなりいい加減に音を合わせていた。もっともその当時 ガンマイクなど無く、音も周りの音が入り鮮明には記録されなかった。作品も重要な部分はナレーション処理で作られていたのである。
◇面倒だったフィルム交換
当時シネカメラのフイルムは100フート、200フいーート、400フイートしかなく、100フイートで3分、200フイートで6分、400フイートで12分しか撮影出来なかった。
鈴木さんたちが持ち込んだアリフレックスカメラは100フイートのフィルムしか装填できない。そこで、インタビュー撮影がスムースに行くように、カメラを2台用意し、一台が撮影している間に、もう一台のフィルムを交換するようにしたのである。3分間でフィルムが尽きると、カメラマンは装填済みのカメラに素早く乗り換えて、なるべく途切れないように撮影を進めたのである。
アリフレックスST16ミリキャメラ
当時助手であつた私は、このフイルム交換が主な仕事であった。装填時は明るい所で装填するが、撮影し終わったフイルムは露光しないように注意する必要がある。100フイートフイルムは、およそ10センチ位の円型の、「スプール」という鉄で出来た板で覆われていて、光が中まで到達しないようになっていたので交換は比較的楽だった。しかし400フイートフイルムはこの「スプール」が無く、装填も取り出しも全てダークバックの中でしなければならなかった。
装填時はフイルムが固く巻き付かれているのであまり事故はなかったが、撮影し終わったフイルムを取り出す時は、巻が緩やかになっていたりするのでかなり慎重にしないと「たけのこ状」に巻き上がってしまい、それを手探りで収めるのは容易なことでは無かった。
◇カメラ二台で交互に撮影
さいわい今回はアリフレックスカメラなので、作業は楽だった。持ち込んだカメラは予備用として持ち込んだカメラを入れて2台だった。インタビューの時は交互に使用し、途中で涙を流すとか、決定的なシーンを逃さないよう行われた。
しかしこの時私は大失敗をしてしまった。フィルムを装填し終わった後、蓋を閉めてロックするのだが、しっかりロックしなかったため、カメラを持ち上げた瞬間、蓋が落ちてしまったのである。アリフレックスは頑丈さに定評があったが、落ち所が悪かったのか、カメラ本体とピッタリ合わせるための溝の部分が1センチ位欠けてしまった。これでは光が入ってしまう。インタービューは続いていたので焦ったが、とにかく光が中に入らなければ大丈夫だろうと思い、黒いビニールテープを貼り付けてその場を切り抜けた。
このカメラはNHKから借りたものである。インタービューが終わった後、NHKのディレクターに蓋の一部が欠けた事を報告すると、取材目的が達成された事でデレクターも興奮していたのか、「いいよ いいよ」と言って文句は言われなかった。その後編集段階でも「光線漏れ」があったとは聞かなかったので、目張り作戦は成功したと思っている。
音撮りのカセットテープは60分回るのでマイクをテーブルの上に置きっぱなし問題は無かった。当時ピンマイクなど無かったのでクリアーな音は取れなかった様に思う。又カメラのモーター音も結構するので今から思うと、「インタビューしましたよ」というアリバイの様な位置づけだったと思う。
◇インタビューの内容は耳に入らず
私はフイルム交換で忙しかったのでインタービューの内容はほとんど記憶には無い。いくつか覚えている断片をここに記す。
「クメール・ルージュがプノンペンに現れて、アメリカ軍が爆撃をするので直ちに疎開するように言われ、強制移住が始まった。最初の頃は、車に荷物を積んで移動していた人たちも何キロも行かない内にガソリンが切れ荷物を持って歩き出した」
「強制移住先で、牛車に乗せられ連れ去られた人は二度と帰ってこなかった。だから、夜中、牛車のギーギーという音を聞くのが恐ろしかった。」
「麦わらを燃やしその灰で、羊羹みたいなおかしを作って食べた」「強制移住先では、移動のショックで髪に白髪がまじり、年寄りと見られたので、比較的軽い、燃料用の牛糞集めの仕事を命じられた。最初は近くでいくらでも牛糞が集められたが、だんだん遠くまで行かなければ集める事が出来なくなった」
等々、色々喋っていたと思うが、私もこれで取材は成功した、とほっとした思い出が強く、内容はアヤフヤである。
◇荒らされていた思い出の家
その後内藤さんが住んでいた家とか街のなかを取材する。家は荒らされ布団は切り裂かれ植木鉢は壊されいた。強制移住させられる時、プノンペン市民は帰ってきた時のため金とか宝石を家の中に隠した。金目の物を盗んでいく人々に家を荒らされていたのである。内藤さんは破壊された家の中で呆然としていた。もはや諦めの心境だったのだろう。
余談だが、プノンペン市内でも虐殺現場が次々と発見されたが、虐殺現場では掘り起こされた頭蓋骨がキレイに並べられている。どこの現場でもそうである。後で聞いた話では、頭蓋骨から金歯を探すので、頭蓋骨だけ取り分けられていたのである。私も、後に、トゥルコック地区(内藤さんの自宅があった)のテレビ塔の下を、人々が掘り返して、頭蓋骨を調べているのを見たことがある。ポト派政権からの解放後、一年ほど経った時だろうか。
◇美容室へ行きたがった内藤さん
内藤さんはしきりに美容室に行きたいと言っていた。たしかに白髪交じりの髪を後ろで束ねた格好が気になっていたのだろう。しかしプノンペンに美容室など無い。お金も流通していないのだから無理な話してある。
後日バンコクに出た時の内藤泰子さんの姿を見た時、これがあの時の人かと信じられなかった。
内藤さんは、プノンペンに半月ほど滞在した後、7月5日、ホーチミンに出ている。その後、ハノイ、ビエンチャン経由で、バンコクに到着しているが、念願かなって美容院に行けたのは、おそらくバンコクに着いてからではないか。
※内藤泰子さんは、日本に戻って3年後の1982年8月30日、49年の波乱の生涯を閉じた。
<了>
<参考>
文春文庫版「戦果と混迷の日々~悲劇のインドシナ」(近藤紘一)
アリフレックスでの撮影方法については下のビデオクリップに詳しい
フィルム収容部の写真
◇鈴木幸男 1950年茨城県生まれ。1975年に日本電波ニュースに入社。1976年、解放後のベトナムを初取材後、79年にはポト派政権崩壊後のカンボジアでカメラマンデビューを果たす。1980年6月から1981年6月までホーチミン特派員を務める。日本電波ニュースの主力カメラマンとして、ソ連の崩壊、カンボジアPKOなどを取材して1998年退社。バンコクに写真店を開業する傍らフリーランスとして活動する。2001年に911テロ後のアフガン国境、2003年には故橋田介氏と共に戦時下のイラクを取材する。2004年テレビカメラマンを引退。